デイリーディボーション 5月14日(火)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 5月14日(火)

2013年5月14日(日)

ヘブル人への手紙 9:6-7
6さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行なうのですが、7第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

【ポイント】

①「儀式」の本来の意味は、礼拝のために心を整えること
「律法主義」の問題は、律法を守ることが最重要課題になってしまっていることです。しかし、律法の本来の目的の一つはイスラエルの民が神様の「聖さ」を知ることにありました。私たちが本当に神様の「聖さ」に触れる時に、私たちは自然と神様の前にひれ伏し、礼拝するものへと変えられます。そこに、義務感はありません。反対に神様の「聖さ」をいい加減に扱う時に、私たちの神様との関係もいい加減なものになってしまいます。例えば、ライフチャーチでは他の多くの教会でそうされているように、日曜日の礼拝に「正装」をしてくる必要はないとしています。牧師もスーツやガウンを着ることはしません。その理由の一つは、私たちが「白く塗られた墓」にならないためです。「・・・墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」(マタイ23:27)

ところが、そのような自由さの中で神様と真剣に向き合い、恐れをもって神様と接するためには、むしろ信仰の成熟が求められます。信仰が未熟であったイスラエルの民は、リーダーがちょっと目を離すとどのようになったか覚えているでしょうか。金の子牛を作り礼拝したり(出エジプト32章)、異邦の地の女性を交わったり(民数記25章)と大変の事が起こってしまいました。信仰的に未熟な者は、神の自由さを正しく用いることができないのです。ですから、律法が養育係として必要であったのです。(ガラテヤ3:24)

②キリストの自由の中に生きる
あなたは、イスラエルの民が年に一度しか神様の臨在に直接触れることができなかったという事実をどのように感じるでしょうか。しかし、もっと厳密に言えば、それができたのは大祭司1人であったということを見逃してはなりません。ですから、弟子たちを始め、ユダヤ人としての背景を持つクリスチャンたちは、祭司を経由する必要もなく、毎日神様と常に共にいることができるということは、どんなに大きな喜びだったのかを容易に想像することができます。この喜びこそ、「律法主義」ではなく、「キリストの自由」の中に生きる喜びなのです。

【祈り】
《ガラテヤ5章》
13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
14律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
15もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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