デイリーディボーション 4月11日(木)

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デイリーディボーション 4月11日(木)

2013年4月11日(木)

ヘブル人への手紙 4:9-11
9したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。10
神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。11ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

【ポイント】
「安息に入るよう力を尽くして務め」とは、努力によって救いを得るという意味ではありません。使徒パウロも繰り返し説明している通り、救いは行い、人間の努力によって獲得するものではなく、「恵み」によって神様から無償のプレゼントとしていただくものです。残念ながら、「恵み」を頭では理解していますが、心の底では「恵み」に懐疑的であるという、おかしな矛盾を抱えて歩んでしまっているクリスチャンを多く見かけます。なぜなら、この世では、「成功のためには努力が必要である」という方程式が当然となっているからです。努力せずに何か良い物を得たいと思うことは、怠惰な人間の堕落した考えであると信じている人が多いのです。私たちをこの世で支配していた、方程式の影響力は大変強いために、「力を尽くして務め」という表現を聞くと、それまで学んできた「恵み」による「無償」の救いを忘れ、「やっぱり救いのために努力が必要なんだ!」と考えるようになってしまうのです。

その原因の一つは、努力を大切にする勤勉、謙虚さなどではありません。その全く反対の「自分の力の過信」、「プライド」「傲慢さ」なのです。「努力でなんとかなる」と考えられてしまう理由は自分の罪の深刻さを理解していない証拠なのです。自分の罪の深刻さを理解していれば、救いに関して「自分の努力」など全く意味がないということに気が付くはずだからです。「信仰」と「恵み」以外に救いの方法は一切存在しない事に確信を持てるはずなのです。使徒パウロが告白している通りです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
」(ローマ7:24) このように救いに「努力」が必要だと考えてしまう原因は、勤勉さでも、謙虚さでもなく、罪の重みを理解しない、十字架の価値を理解しない無知と傲慢であることをしっかりと認識するべきなのです。

それでは、この「安息に入るよう力を尽くして務め」とは何を意味しているのでしょうか。ヘブル書の著者が頭の中に描いているのは、エジプトを脱出という、イスラエル史上最大の救いと贖いの経験をした後のイスラエルの民です。その経験にもかかわらず、神様の御心を拒み、モーセを通して語られた神のことばに意志的に逆らう者が多くいたのです。「神様の約束を信じ続けたいけれども、不安になる」というような程度の者ではありません。他のリーダーを立ててエジプト戻ろうとしたり、モーセを殺してしまおうとまで考えるような人達がいたのです。そして、他の人々もそのような神に逆らう者の影響を受けてしまったのです。ですから、そのような事が起きないように「12兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。13「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」(ヘブル3章)というような努力をキリストの群れ全体が行なっていく必要があるということなのです。既に救われ、永遠の安息が与えられている群れとしての歩みについて教えているのです。

そのために必要なことは、一人ひとりがイエス様の愛と赦しの中に生きていくことができるように励まし合うことです。ここに教会の大切さがあります。何らかの規則、ルールを守ることを奨励することではありません。今も生きて、私たちを愛し、育て、用いようとしているイエス様と、「個人的」で「現実的」な関係を持ち続けることです。イエス様があなたに対して親しく語られることばに耳を傾け続けることです。反対に「お前はクリスチャンとしては失格だ」「それで本当に救われていると思っているのか」「お前の愛は口先だけだ」「お前はあいつよりは信仰的だな」などという、もっともらしい、しかし間違った語りかけ、思いに耳を貸さないことです。

【祈り】
《ローマ8章》
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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