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2013年4月12日(金)
ヘブル人への手紙 4:12-13
12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。13
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
【ポイント】
ヨハネはイエス・キリストご自身が「神のことば」であることを説明しています。ヘブル書の著者も1章2節で「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とイエス・キリストこそが神様の完全な啓示(ことば)であると証ししています。もし、キリストの復活が無ければ、私たちはキリストを「死んだ者」、そしてそのことばも「死んだことば」と判断する必要があります。しかし、キリストは確かに復活されたがゆえに、そのことばが神のことばであり、今も行きていることばであるという確信を持つことができるのです。
復活があろうがなかろうが、キリスのトことば普遍的な教えを含む価値あることばだと考える人もいるかもしれません。しかし、それは全くの間違いです。イエス様が自身がそのことを説明しています。例えばヨハネ6章35節を見てみましょう。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ということばは、キリストが復活していなければ、「嘘」以外の何物でもなくなってしまいます。そもそも、「普遍的な教え」「有益な教え」などというものは、小説、演劇、絵本、漫画などの中にもいくらでも見出す事ができます。3才の子どもが話すことばを聞いて、その親が激しく悔い改めに導かれることだってあるでしょう。しかし、そのような「教えは」に人の生き方を変えさせる力はあるでしょうが、いのちを与える力は持っていないのです。
つまり、聖書、キリストのことばがなぜ極めて重要で、絶対的な価値を持っているのかという理由は、その倫理的、道徳的な教えにあるわけでも、その愛の思想の中にあるわけでもありません。そのことばが、造り物のことばではなく、実際に生きている神のことばだからなのです。どのような彫刻も、絵画も、生きている人間の内面から溢れ出る本当の美しさを表現することができないのと同じように、どのように素晴らしく聞こえる「教え」や「思想も」その中にいのちがない限り、ただの造り物にすぎないのです。造り物でも人を感動させる魅力、一時的な希望を与える力、魅力は持っているでしょうが、人にいのちを与える力は持っていないのです。
さらに、神のことばには「判別」する力があります。なぜなら、神のことばは純粋だからです。「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
」(詩篇18:30) その純粋さに触れる時に、私たちは自分の不純さを思い知らされます。その完全な白さに触れる時、自分が純白と信じていた色も黄ばんで見えるのです。神様の臨在に触れるとは、そのような経験なのです。自分がどんなに良い人間だという自負を持っている人も、完全な聖さに触れる時に、自分の醜さ、穢れに身の置きどころないような「恥」を覚えるはずなのです。神様の臨在に触れたイザヤは「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
と告白しました。神様の聖いみことばにも、全く同じ力があるのです。
ここに、悔い改めへの導きがあります。私たちは自分の正しさでは神様の前に、自分自身を弁明することはできないからです。ですから、キリストがが私たちの罪のために死んでくださったのです。
【祈り】
《1ヨハネ4章》
16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
ライフチャーチ牧師 大谷 信道