デイリーディボーション 4月25日(木)

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デイリーディボーション 4月25日(木)

2013年4月25日(木)

ヘブル人への手紙 6:4-6
4一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、5神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

【ポイント】

①「堕落(救いを失う)」可能性があるのか、ないのか?
ここは正しく理解することが極めて難しいとされている箇所です。なぜなら、救われた者が救いを失う可能性があることを教えているように見えるからです。ヘブル書の著者が確かに一度救いを体験している人について述べているように見えます。しかし、新約聖書多くの箇所から、救いは神様の契約であり、その契約が反故になることな絶対に無いことを教えていることも明らかです。ですから、この箇所に関しては多くの議論がされ、様々な解釈が存在します。私は「理論的には堕落の可能性はあるが、神様はそれをされない」と考えています。

②極めて厳し警告=神様の私たちに対する愛、励まし
いたずらを止めない子どもに「怖いおじさんが来るよ!」「警察のおじさんが来るよ!」などという親がいるものです。私は完全に間違った教育方法だと思っていますが、子どもがよく育っていって欲しいという親の子どもに対する愛の気持ちは分かります。ここがこの箇所を理解する鍵になるとおもいます。つまり、先の親のことばと同じように、実際には起こる可能性のない重大な事態があたかも起こるかのように語る、重大な警告であると理解できるということです。現代では決して受け入れ難い教育方法ですが、「親が嘘をついた」「真理に反している」と責められる必要はありません。

③「堕落」と「一時的に心が離れること」は全く違う
「堕落」を心配するのであれば、本当の「堕落」を知らなければなりません。真面目なクリスチャンは、自分の心が少しでも神様から離れてしまったと感じると、自分は、救いから堕ちてしまったのではないかと心配になります。しかし、心配したり、罪責感を覚えている事自体が「堕落」していないことの動かぬ証拠なのです。本当に「堕落」したのであれば、神様から離れたことこの上ない快感、満足感、喜びを感じることでしょう。これは、まさにサタンの心境です。

④例えば、放蕩息子は堕落したのではない。
ルカ15章の放蕩息子はもともと父と共にいました。父の愛を味わっていました。いずれ父の財産を受け継ぐ約束を知っていました。しかし、父のもとを離れてしまいました。もし、これを「堕落」と呼ぶことができるでしょうか。父の財産を自分の欲望にまかせて使っている姿を見た人は、彼を救いようの無い罪人だと断定したかもしれません。誰もが「救いようのない罪人」というレッテルを貼った息子には、悔い改めの機会が残されていました。一度父の愛を知った者は、父の愛から離れることが出来ないのです。ですから、早合点はいけません。罪を犯してしまったからといって、自分が救いから堕ちてしまったのではないかと心配したり、他の人をそのように見たりしてはならないのです。

⑤「可能性」と「現実」は異なる
イエス様は人間の肉体を持っていましたから「罪を犯す可能性」を常に持っていました。しかし、実際には罪を犯されませんでした。神様は全人類、全宇宙を滅ぼす能力、可能性を持っています。しかし、実際にはそれをされません。同じように、救われた人間は依然として自由意志を持っていますから、理論的には意図的に神様を捨てる可能性、堕落する可能性を持っていると言えるでしょう。しかし、実際に神様が一度救いを経験した人から救いを取り上げるかどうかは、別の話なのです。

【祈り】
《ロマ6章》
1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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