デイリーディボーション 4月8日(月)

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デイリーディボーション 4月8日(月)

2013年4月8日(月)

ヘブル人への手紙 4:1-2
1こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。2福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

【ポイント】
この2週間の「キリストの受難と死」の学びはどうだったでしょうか。あなたがそこまでキリストから愛されているという事実は、あなたの生活にどのような違いをもたらしているのでしょうか。「あなたは、キリストの受難と十字架での死だけでは不十分なのか?」と自らに問いかけながら歩んでいきましょう。

さて、今週からヘブル人への手紙に戻ります。1節の「恐れる心」ということばに注目しましょう。昨日の礼拝でも「神様の裁き」について触れました。神様は「恐怖」ではなく、「愛」によって私たちを支配する方です。多くのカルトが「恐怖」によって人の心を操り、問題となっています。残念なことにカルトの中には一部のキリスト教会も含まれています。カルト的に教会のメンバーではなくても、神様の愛の中に生きる喜びではなく、神様の罰から逃れたいという恐怖心が、日々の生活の原動力になってしまっているクリスチャンも少なくありません。親の目、評価を気にしながら、親に怒られないように生きている子どものような生き方が、神様のとの関係の中に起きてしまっているのです。そのような神様との間違った関係に陥ってしま人が多いので、教会の牧師は、「神様の永遠の裁き」「永遠の死」について教える時に、大変気を遣います。中には、永遠の死、永遠の裁きについて教えることを止めてしまう牧師がいるほどです。

このような風潮の中で、大切なことがあります。それは、「正しい恐れ」を持つことです。まず、イエス・キリストを救い主と信じ、人生の主として従っていくという「信仰」が与えられた者は、その「信仰」のゆえに、決して神様から見放されたり、救いを取り消しにされることはないということを知ることです。イエス様の血の贖いは完全な御業であって、「赦されない罪」を残すようなことは絶対にないということです。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)
イエス様は十字架の直前にご自身の流される血についてこのように説明されました。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(マルコ14:24)
神様は「契約」を無効、反故にすることは絶対にありません。ですから、自分は救いを失うことがあるのではないかという「間違った恐れ」の中に生きる必要はないのです。

次に大切なポイントは「正しい信仰」を持つことです。残念ながら、「イエス様を信じます!」と口で告白していながら、イエス様に従おうとしない人がいます。それでも、その人達にとってイエス様は依然として大切な存在なのです。なぜなら、彼らにとっては、イエス様は自分が天国に行くための道具、保険、お守り、安全牌だからです。
しかし、それは「間違った信仰」だと言わなければなりません。そして、「間違った信仰」によっては、救いを受けることができないのです。教会の中で信仰を失ってしまうように見える人は、実は最初から「正しい信仰」によって救われていなかった可能性があるということです。イエス様は神様の愛を知った者をこのように招かれました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

正しい信仰は、すべてをご存知である神様を正しく恐れることから始まります。神様は私たちに純粋な愛、素直さ、従順さ、悔い改めを求めています。行いが不完全であっても、キリストに従い続けたいと願うものを、追い出されることはありません。一方、神様がすべてをご存知であるのに、神様を恐れず、侮り、自分の利益のためにキリストを利用しようとする者は、神様を恐れ、直ちに悔い改めることが必要です。「福音」が「信仰」と結び合わされるために「恐れ」が大切な役割を果すのです。

【祈り】
《箴言9章》
10主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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