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2015年1月6日(火)
【通読】
ガラテヤ 4:21-26
21律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。22そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。23女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。24このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。25このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。26しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
①「約束」と「自由」
「自由」と「奴隷」についてヨハネ8章に記されているイエス様のことばから学んでみましょう。
32そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」33彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」34イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。35奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
「自由」とは罪に支配されている生き方からの解放であることが分かります。しかし、罪の問題は人間の努力によって成し遂げられるものではありません。だからこそ「奴隷」ということばが使われているのです。罪の奴隷からの解放は神様の力によってのみ可能なのです。なぜなら、神様がアブラハムを選ばれた出来事見れば、それはアブラハムの良い行いによってではなく、神様の一方的な約束によることが明らかだからです。
ですから、「自分は行いが伴わないので、クリスチャン資格だ!」、「神様に喜ばれるために信仰熱心になろう!」というよう、多くのクリスチャンが陥りやすい感覚は、全く見当違いなものであることが分かります。神様は私たちの不完全さを知りながら、私たちを愛し、選んでくださったことを決して忘れてはならないのです。
【日曜礼拝の中心聖句】
ヨハネ13:1
1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
【今週の適用と実践】
①自分の愛情不足を理解する
②私たちが本当に必要としているのは神様の愛であることを知る
③愛は概念ではなく、実質を伴うものであることを知る
④キリストの愛を頭で理解するのではなく、心に受け取る
【今週の祈り】
「主よ、私はあなたの愛が必要です。あなたの愛を頭で理解するだけでなく、あなたの愛を心に受け取る者として下さい。」
ライフチャーチ牧師 大谷信道