デイリーディボーション 5月16日(木)

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デイリーディボーション 5月16日(木)

2013年5月16日(木)

ヘブル人への手紙 9:11-14
11しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。13もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

【ポイント】
①「平和ボケ」「便利ボケ」している自分に気付く
スーパーの精肉コーナー行くときれいに加工された各種のお肉が並んでいます。現代人にとっては当たり前の光景です。しかし、食肉加工のために行われる屠殺について考えたことはあるでしょうか。私たちが一生の内に、何頭の牛、豚、何羽の鶏を殺しているのかを考えたことがあるでしょうか。そのようなことを真剣に考えたら、肉など食べられなくなってしまうかもしれません。しかし、現実として、私たちは自分の手を血で汚すこと無く、動物の最後の叫び声を聞くこともなく、肉を食べているのです。このような話を聞くと「じゃあ肉を食べるのをやめよう!」と考えるかもしれませんが、そういう問題ではありません。動物愛護の精神を大切にすることでもありません。ポイントは、自分のいのちが多くの犠牲の上に成り立っているという動かしがたい現実に目を向けることです。

実は、屠殺の現状を知ることは、キリストの十字架を理解する上でも重要だといえます。かつて、祭司たちが血にまみれながら、ささげられた動物を屠り、神様にささげていた姿を知るために、つまり聖書の学びのために、屠殺の現場を見学することも大切かも知れません。私たちの肉体が生きるために血が流される必要があるということを、観念的としてではなく、現実として知る必要があるのではないでしょうか。さらに、新約聖書の時代は、ローマ帝国が行なっていた十字架刑などによって人々は動物だけではなく、人間の死を目撃する機会も多くあったと思われます。キリストの十字架の現実を学ぶために、処刑の現場を見ることを勧めるとしたら、それは行き過ぎであると思います。しかし、イエス・キリストはそのようにして、人々が見ている前で、弟子たちが見ている前で十字架にかかり、血を流されたのです。

屠殺現場の動物の苦痛、そこでの空気感、音、匂いを知らずに気軽に肉を食べている現代人。同じように先進国に住む、クリスチャンの多くはイエス様の十字架での苦しみを、実体験として知らずに、気楽に救いの中に生きていることはないでしょうか。現代の消費者が「この肉は固い」などと気軽に文句を言っているのと同じように、現代のクリスチャンは「救われたはいいけど、クリスチャン生活って大変!」などと気軽につぶやいていることはないでしょうか。

神様は、ご自分の聖さ、永遠いのちの価値、罪の深刻さについて、動物を屠らせるという実体験を通してイスラエルの民に教えられました。そして、その律法の重荷は、に来るべき完全な罪の贖いに対する大きな期待、希望をもたらすものでもあったのです。

【祈り】
《レビ記17章》
11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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