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2014年11月7日(金)
2コリント 11:10-12
10私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。11なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。12しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。13こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
【ポイント】
①にせ使徒の問題
コリントの教会の問題は純粋な教会の中の問題ではありませんでした。コリント教会では、外から「使徒」と称する人がやってきて、間違ったキリスト、間違った霊、間違った福音について教え、その影響を受けてしまった人々がパウロに対して反発するようになってしまったのです。本当に頭の痛い問題だったことでしょう。なぜなら、パウロがその人々を「にせ使徒」と呼んでいるということは、一見使徒のように見える人々であったわけです。つまり、彼らはキリストを信じていると告白している人たちだからです。彼らが全く違う宗教を伝える人たちであれば追い出してしまえば良いわけですが、その人たちがキリストの名を語る限り、彼らを100%否定してかかることが難しいからです。ですから、今日の箇所でパウロが彼らを「にせ使徒」と呼んでいることは、大変な勇気と確信が必要だったことが分かります。
ここで、大切なことは教会の中で、または外から来た誰かが何かを言い出したとします。その内容がいかに正しそうに聞こえたとしても、その働きによって教会の中に争いや、対立が起きてしまったとしたら、それは聖霊の働きではないということです。家族で考えてみると分かりやすいでしょう。以前も同じことを書きましたが、たとえば、家族のメンバーの一人が、「この家族は間違っている!」とか、子どもが親に向かって「お父さん(お母さん)は親としての資格なんかない!」といくら叫んでも、たとえその内容が正しとしても、そのような方法では良い家族を築くことはできません。つまり、ひとりひとりがそれぞれの理想家族の姿を掲げ、自分たちの家族がいかに理想と違っていると主張しても、家族の一致を見だしている犯人を見つけ出したとしても、それだけでは家族は一つのされないのです。大切なことは、その不完全さの中で、どのように互いに受け入れ合い、あきらめないで関わり続け、一致を保っていくことなのです。
【祈り】
《1ペテロ4章》
8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
9つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
11語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる
力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りな
くキリストにありますように。アーメン。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道