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2014年10月27日(月)
2コリント 10:1-3
1さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。2しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。3私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
①「キリストの柔和と寛容」を身に付ける
パウロのコリント教会の人々に対する態度は、パウロのイエス・キリストへの信仰と深く結びついていることが分かります。というのも、パウロがイエス・キリストであったら、どのように対応するのであろうかということを考えながら、コリント教会の人々と関わっていたことが「キリストの柔和と寛容をもって」ということばから明らかだからです。
注解者コリン・クルーズは「キリストの柔和」こついて、このように説明しています。「パウロが特に言う柔和は、キリストご自身の生と働きに端的に具体化していたものである。キリストの柔和は、神の律法をの要求を引き下げるような、わざとらしい柔らかさではない。キリストの柔和は、罪人たちに優しくあわれみ深くふるまわれたところに現れていた。しかし彼らの罪については、いささかも軽視されることがなかった(マタイ11:29参照)。パウロが特に柔和と言うとき、それはこのキリストの柔和の意味であった。」
ここに、イエス様の「柔和と寛容」と、この世の人間的な考え方から来る「柔和と寛容」に大きな違いがあることが分かります。もし、パウロが人間的な寛大さからコリント教会の人々と関わり、福音と彼らの主張をすりあわせ、妥協点を見つけるというような意味での「柔和と寛容」を実践していたとしたら、コリントの教会から反発や批判を受けることはなかったでしょう。しかし、パウロは「いけないことはいけない」という毅然とした態度を貫いたために、一部の人たちからの反感を買ってしまったのです。しかし、だからといってパウロはその人たちを嫌ったり、関わりを断ったりするのではなく、根気強く、悪い行い、悪い習慣から立ち返るように、かかわり続けたのです。これがキリストの柔和と寛容なのです。
人間的な柔和、寛容、妥協は、人からの歓心を買うことはできますが、神様に喜ばれることはないのです。しかし、私たちのチャレンジがあります。なぜなら、人間的な柔和の実践は簡単で、キリストの柔和の実践は大きな勇気を要する作業だからです。他のクリスチャンの友人から相談を受けた時に、そこに何らかの問題を感じていたとします。その時に、「別にそれでいいんじゃない?」「しかたないよ、人間はみな不完全なんだから」というような類の言葉がけは簡単ですし、いかにも寛大そうな対応です。しかし、「あなたの気持ちはよくわかったよ。でも、それは、あなたの課題でもあるんじゃないかな。」などと、相手の問題、課題を明確にした上で、「自分も同じような課題を抱えているから、一緒に取り組んでいこうよ!」と共に歩んでいくことを確認することは、大きな勇気が必要なのです。
もちろん、ただ話を聴くことにもっと多くの時間を費やす必要がある場合もあるでしょう。相手が自分の課題に直面できるようになるためには、時間をかけることも大切だからです。しかし、その間、必要以上に人間的な慰めを与えてしまうと、相手は自分以外に問題の原因があると考えるようになり、相手が自分の課題に直面する機会を奪ってしまうことになるのです。そのような意味では、人間的な柔和、寛容は表面的には暖かく見えますが、実は、相手をダメにしてしまう冷たい対応なのです。この点を勘違いしてしまっている人が多いのです。適当な事をいう人は喜ばれ、パウロのように本当のことを言う人が疎まれるというようなことが、起きてしまうのです。
【祈り】
《ガラテヤ1章》
10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道