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2013年4月1日(月)
「キリストは私たちの義の土台を築いて下さるために苦しみ、死なれた」
ローマ5:9
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
【ポイント】
キリストの受難と死の理由をいくつも確認して来ました。それぞれ、関連しているため同じようなものだと感じてしまうかもしれません。例えば「罪が赦されること」と「義とされること」は似ているようですが、実は全く違うことなのです。罪の赦しとは、私たちの犯した罪を問わない、または、私たちが罪を犯していない者とみなされることです。しかし「無罪」であることは、必ずしも私たちが神様の前で正し者とされたということではありません。悪と善をはかるメーターがあるとしたら、その針が「±0」の位置を指している感じです。
一方、「義とされる」とは、善悪のメーターの針が善の側に100%振れている状態に例えることができます。神様の正しさの基準は「±0」ではなく「100%」ですから、私たちは「義」とされてはじめて神様に受け入れられる状態になったということができます。もちろん、「罪赦し」と「義とされること」はセットとして同時に起こります。ですから、イエス様を信じ罪は赦されたけれども、まだ義されていないという状態はあり得ません。
「義とされる」とは、神様があなたを100%受け入れてくださるという約束です。「義とされる」とは、イエスを信じた者の倫理(行い、思い)が完全な者とされることを意味しているわけではありません。私たちクリスチャンは、この事実を正しく理解できないと、様々な誤解に陥る危険性があります。例えば、「自分はクリスチャンになって10年も経っているのに、未だに罪を犯してしまう。もう、救いは無効になってしまったのではないか?」「神様を信頼し、委ねることができないことがある。自分は信仰がないのではないか?」などということです。
私たちはイエス様の血によって「±0」の状態にされて、この世に放り出されたわけではありません。ゼロからやり直して、もう一度100%を目指し、その結果として救いを獲得するための歩みを始めたのではありません。「罪の赦し」も「義」もすべて、イエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって神様から与えられたのです。イエス様の血は、私たちの「義」を確かなものとするために流されたのです。私たちの体は依然として古い性質を持っています。しかし、それは「義」とされていないからではありません。そのようなものだからこそ、神様はイエス様の血によって、私たちを義としてくださったのです。
【祈り】
ローマ3章
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ライフチャーチ牧師 大谷 信道