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2013年3月29日(金)
「キリストは私たちに対する法的な責めを無効にするために苦しまれ、死なれた」
コロサイ人への手紙2:13-14
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
【ポイント】
多くの人は、自分の悪い行いと善い行いを比べ、良い行いのほうが多ければ地獄に落とされるようなことはないと信じているようです。実際、日本の道徳観は他の国比べると高いようですし、日本人の多くは、自分は「まあまあ善い人間」という意識を持っているかもしれません。このような「中途半端な正しさ」の意識はイエス様を信じる大きな障害になっているようです。
しかし、聖書が教える罪は、律法に反する悪い行いだけではなく、神様の愛を認めないこと、自分の人生を神様に支配させないことなのです
(ローマ14:23)。そのような基準からすると、罪を犯さずに生きている人は、誰ひとりいないのです。そして、罪を持った結果はローマ6章23節にある通り、「罪から来る報酬は死」なのです。
この神様の決められたルールに違和感を覚える人が多くいます。公平ではないと感じる人もいるかもしれません。しかし、使徒パウロはローマ人の手紙3章9節でこのように教えています。「・・・それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」
神様の前ではいかなる言い訳も通用しません。なぜなら、すべてをお見通しだからです。自分は善い人間として努力して生きてきたことを一生懸命説明したとしても、その「善さ、正しさ」の基準は、神様の基準からかけ離れていることに気付かされ、自分の罪深さを思い知らされ、だれも神様の裁きに対して不服を申し立てる者はいないということなのです。
ですから、私たちは自分たちの罪に関して、自分の努力によってではなく、有罪判決自体を無効にしてもらう必要があるのです。そのために、イエス様が十字架にかかり、死んでくださったのです。私たちの代わりに罰を受けてくださったのですから、私たちに対して与えられている有罪判決は、無効なものとなったのです。神様のルールのもとで、そのルールに完全に従う形で、私たちの有罪判決が取り消されたのです。
私たちの罪の赦しは、気まぐれな神様の気分が変わったから起こったのではありません。神様が自分の作ったルールを自分で破り、反故にしてしまったために起こったのでもありません。正式な手続きの中で、私たちの罪の赦しが与えられたのです。それが、イエス様の十字架での苦しみと、死なのです。
イエス様の十字架以外に救いはないのです。神様が定められた、唯一正式で、法的な罪の赦し手続きは、イエス・キリストを信じることなのです。
【祈り】
使徒4章
12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道