デイリーディボーション 11月11日(火)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月11日(火)

2014年11月11日(火)

2コリント 11:20-22
20事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。21言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが――私もあえて誇りましょう。22彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。

【ポイント】
①偽使徒の実態
今日の箇所から、偽使徒たちによって引き起こされている問題の実際の姿を推測することができます。それは私たちが知っている悪質なカルトに似ているようです。「奴隷」ということばから、彼らが極めて支配的であったことが分かります。さらに、「食いつくされても」ということばから、彼らが高額な報酬を要求されていたことが伺えます。また「だまされても」ということばも「だまし取る」とい意味のことばです。「いばられて」ということばからは、彼らの高圧的な態度、さらに「顔をたたかれて」ということばからは、その態度が暴力的すらあったことが分かります。

ちなみに、現代のカルトはさらに巧妙になっているので注意が必要です。多くのカルトでは「ラブシャワー」と呼ばれる方法を用いて、相手が自分たちに反抗できないような関係を作ります。それは、ターゲットに対し徹底的に親切にすることです。食事を食べさせたり、金銭的に援助をしたり、熱心に話を聞いてあげたりと、とにかく相手が「申し訳ない」「とても恩返しもできない」と思うようになるまで、親切を続けるのです。

②人々の問題
にせ使徒の問題は、にせ使徒達の支配的な態度だけにあるのではありません。その支配に甘んじ、依存的になっている人々にも問題があります。そのような人々がいるからこそ、にせ使徒たちが自由に活躍できてしまったのです。「彼らなら、なんとかしてくれるんじゃないか?」という、ある種の甘えといってもいいかもしれません。現代でも同じような問題があります。「あの教会に行けば自分の信仰が強められるのではないか?」「あの有名な牧師は自分を変えてくれるのではないか?」というような感覚です。このような人は、ある種支配的、権威的、または自分が信頼できると思ったリーダーを見つけると安心します。しかし、その安心は、実は他人の過度の依存状態から来るものであって、本当の平安ではありません。相手が支配的であったとしても、そこに寄りかかっている方が楽だと感じているだけなのです。

③主にある自立
神様が私たちに望んでいるのは、私たちがキリストとの関係の中で自立することです。健全なリーダーは、人々がキリストとの親密な関係を築くための手伝いをします。場合によっては、相手から冷たいと思われることを恐れず、相手を突き放し、一人で考えさせることが大切です。自分が頼られていることに自分の存在意義を見出すリーダーがいますが、そのような感覚で人と関わると、結果として、イエス様とその人との間に入り、その人がイエス様に信頼していく邪魔をすることになるのです。自分では相手を支配している意識は全くなく、純粋にクリスチャンとして優しくお世話をしているつもりでも、支配的なリーダーと同じく、相手を依存的にさせ、主にある自立を阻害してしまうのです。

日常生活の中でも、自分の子ども、後輩、部下との関わり方について、このような視点から見てみましょう。そして、この視点から福音書を読むと、イエス様の弟子たちとの関わり方、過度な依存に陥らせないための距離の取り方は実に見事なものだと思います。

【祈り】
《ヨハネ15章》
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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