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2013年7月31日(水)
ピリピ人への手紙 1:2
2どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
【ポイント】
①恵みの中に生きる
2節は単なる挨拶、決まり文句だと思ってはなりません。「恵み」とは、自分は受け取る権利がないような良いものが無償で与えられることです。そして、聖書の「恵み」とはイエス・キリストによる救いを指しています。自分の努力によって神様の好意を得ることはできません。神様の正しさのレベルまで自分を引き上げることは絶対にできないからです。その理由は私たちが「罪」を持っているからです。自分の努力や修行で神様から認められるようになれると考える人が多いのですが、そのように考えられる人は、人間の本当の罪深さ、不純さを知らないのです。
残念ながら、クリスチャンの中にも「恵み」の価値を見誤っている可能性があります。私たちの救いのために与えられた犠牲の大きさ、神様の愛の大きさを理解できないと、永遠に欲求不満、つぶやき、不安の中に生きることになります。私たちの心を完全に満たすことができる神様の恵みが既に与えられているのに、その恵みを恵みとして受け取らないという事があり得るのです。キリストの恵みによっ満たされなければ、他に私たちの心を満たすものは存在しません。心が満たされない感覚を覚える理由は、神様の恵みを理解し、受け取っていないことにあるのではないでしょうか。
②恵みは平安をもたらす
平安とは神様の恵みに満たされ、心の中に平和が与えられている状態を意味します。クリスチャンとしての歩みが正しいかどうかを知る、最も簡単な方法は自分の心に「平安」があるかどうかを確認することです。平安とは不安、苛立ち、つぶやき、怒り、妬みなどから自由にされている状態です。ほとんどの人は、自分の不安や怒りの原因は他人、環境、つまり自分の外にあると考えます。たしかに、そのようなネガティブな心の状態を引き起こす引き金になることは、この世に溢れています。しかし、それらはあくまでも「引き金」に過ぎません。自分にとって嫌なこと、ストレスを感じることに遭遇した時に、それに反応し、不安を覚えるかどうかは、最終的には自分の問題なのです。だからといって、不安に陥った自分を責めても解決にはなりません。つまり、人を責めても、自分を責めても絶対に平安は与えられないということなのです。平安を得る唯一の方法は、神様の恵みとキリストの愛の中に生きること、神様の恵みと愛を素直に受け取ること以外にないのです。
聖書からキリストの恵みについて学び、その恵みを受け取り、味わうのです。「平安がない」、「平安が欲しい」とつぶやいていても、その状況は変わりません。既に与えられている「恵み」を味わう時に、つまりキリストの十字架の愛を味わうのです。そのとき今まで経験をしたことがない平安に包まれるのです。
【祈り】
《ヨハネ1章》
16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道