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2013年4月18日(木)
ヘブル人への手紙 5:7-10
7キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、10神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
【ポイント】
イエス・キリストが100%人間と同じ肉体を持っていたという事実(キリストの人性)についての理解を欠くとしたら、それはまるでキリストの福音の半分を捨てるようなことです。キリストは全知全能の存在でありながら、不完全で朽ちていく肉体の性質も持ち合わせていました。私たちと同じように空腹や痛みを感じ、私たちと同じように誘惑に反応する身体を持っていました。しかし、それは神の完全さを失ったことを意味しているのではありません。反対に、常に弱さや誘惑にさらされている肉体を持ちながら完全さを全うするという、人類史上誰も達成したことのない偉業を成し遂げるためだったのです。それは、天の父に栄光を帰すためであり、また、自身が栄光を受けるためでした。
さらに、それは人類の罪の贖いのために、傷のない完全な犠牲としてご自身をささげるためでもありました。ヘブル書12章4節には「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」とありますが、イエス様は「大きな叫び声と涙をもって」、「血を流して」罪に抵抗し、勝利を収められたのです。これは、私たちの救いのために完全なささげものとなるためなのです。これまで何度か学んできましたが、もしイエス様がスーパーマンであったとしたら、つまり、人間の性質、とくに痛み、苦しみの感じ方が違う人間であったとしたら、イエス様の受難、従順には何の意味も無くなってしまいます。
キリストの「人性」を理解した次のステップは、キリストとの「個人的」かつ「現実的」な関係を築き、深めていくことです。その反対の関係は「非人格的」、「非現実的」な神様との関わりです。まるでお化けと付き合うような関係です。キリストとそのような関係しか持っていないクリスチャンはたくさんいます。キリストの現実的な聖書のみことばよりも「まぼろし」や「夢」のような、非現実的で不確実な出来事を現象を重視していることはないでしょうか。
また、個人的な関係を築けていないと、みことばによって与えられる、キリストからの個人的な慰めや励ましを受けることができません。代わりに牧師や他のクリスチャンにそのようなものを求めてしまうケースがありますが、思い通りの結果が得られない時には、相談相手に不満を感じたり、失望したりしてしまいます。確かに、キリスト者の励まし合いは極めて重要なものですが、キリストから個人的に与えられる慰めや励ましの代わりにはならないのです。むしろ、キリスト者の真の励まし合いは、お互いにキリストと個人的な関わりを持ち続けること、キリストに繋がり続けることができるように励まし合うものです。
ですから、今日イエス様と個人的で現実的な関わりを持ちましょう。心を開き、イエス様に語りかけるのです。イエス様は必ず応えてくださいます。このような書き方をすると超自然的な語りかけ(幻聴)のようなものを想像してしまう人もいるでしょう。そうではありません。あなたが聖書を通しイエス様のことを個人的によく知っていれば、イエス様がどのようなことばをかけて下さるのかを想像ができるようになるのです。弟子たちに「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)
と言われたイエス様は、今日あなたにどのような声をかけてくださるでしょうか。
【祈り】
《黙示録1章》
17恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
18生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道