デイリーディボーション 7月25日(木)

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デイリーディボーション 7月25日(木)

2013年7月25日(木)

ヘブル人への手紙 13:20-21
20永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

【ポイント】
①平和を作る
今週のヨハネ1章12節からの説教を思い出しましょう。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。キリスト(神)を
「受け入れる」とは、 その存在を受けれ、その存在と正しい関係を持つことです。ですから、「平和の神」を信じるとは、神様が平和を作る方であると信じ、私たちも平和を求め、平和を作る者となることを決心することです。「私は自分が救われることには興味があるけれど、平和については興味がありません。」ということはあってはならないのです。イエス様はマタイ5章9節で、このように教えています。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

②「平和」は「平安」
日本語の聖書では「平和」「平安」と文脈に合わせて違う日本語を使っていますが、ギリシャ語では「eirene」という一つの単語です。つまり、このことばは、国と国間に戦争がない状態を表しているだけでなく、神様によって与えられている心の平安を表していることばでもあります。当然、この2つは別々の概念ではありません。なぜなら、心にキリストにある平安が与えられている人は、決して他の人に対して怒りや妬みという感情をを抱いたり、その感情に振り回され他者を傷つけるという行為に及ぶことがないからです。世界平和は、一人ひとりがキリストにある平和に中に生きていくことによって実現するのです。

③キリスト者の平和
パウロはロマ書5章10節でこのように語っています。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」私たちの平安は、単なる心の安心ではありません。私たちの「平安」は、キリストが血を流され、その死によって神様の和解が与えられた事によって実現しています。神様が罪人である私たちに対する「敵意」を破棄されたゆえに、平安が与えられたのです。ですから、キリストの血によって和解と平和を与えられているキリスト者が、他の誰かに敵意を持ったり、他者の罪について責め立てることは、神様を悲しませることになるのです。

【祈り】
《エペソ6章》
23どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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