デイリーディボーション 10月16日(木)

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デイリーディボーション 10月16日(木)

2014年10月16日(木)

2コリント 8:6-8
6それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。7あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。8こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

【ポイント】
①「あなたがた自身の愛の真実を確かめたい」
昨日は「与える生き方」が私たちにもたらす祝福について、リック・ウォレン牧師の著書から学びました。しかし、「与える生き方」からの祝福は、ある意味「結果」であって、必ずしも「目的」ではありません。なぜなら、「与える生き方」は、神様から与えられている恵み、愛に対する応答だからです。ですから、私たちが献金、募金などをささげる時、究極的には人や団体に対して何かを与えるのではなく、神様に対して捧げることになるからです。ですから、パウロはその募金がどのように用いられるのかとか、ユダヤの教会がいかに大変な状況にあるのかなどという必要について訴えるのではなく、コリント教会のメンバーのキリストに対する愛、隣人に対する愛について焦点を当てているのです。

ささげ物が、ささげる者と神様との間の直接的な出来事であることは、例えば、マラキ書3章を見てみても明らかです。「8人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。9あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」

什一献金やその他のささげ物について、いい加減に行う者は人からでもなく、神殿からでもなく、神様から直接盗んでいると言うのです。そして、神様との関係をいい加減にする者は、当然の結果として、本来受けることができるはずの祝福を受け損なってしまうのです。

②祝福を受け損なわないために
「与えること」「ささげること」に熱心に取り組む人、つまり神様との関係をいい加減なものにしないという決心と覚悟の中に生きている人は、大きな祝福の中に歩むことができる約束が与えられています。それは、神様との愛の関係が確立しているからです。口先で神様を愛していると言いながら、与えることを惜しむ人は、本当の意味で神様の愛を受けていないか、受けていても感謝していないかのどちらかなのです。罰や呪いを受けているというよりも、誰にでも開かれ、用意されている神様の祝福を、受け損なっているのです。ですから、神様はマラキ書で続けてこのように宣言されているのです。「10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

【祈り】
《マタイ6章》
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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