デイリーディボーション 9月30日(火)

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デイリーディボーション 9月30日(火)

2014年9月30日(火)

2コリント 5:20-21
20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

【ポイント】
①「神の義」とは
21節で「神の義」ということばが出てきますが、どのような意味なのでしょうか。神様自身もっている義なのでしょうか。それとも神様によって信じる者に与えられる義なのでしょうか。今日の箇所かでは、後者であることが分かります。

それでは、キリストを信じる者に既に与えられている「神の義」とは具体的に何なのでしょうか。これまでの文脈から「神の義」と「神の和解」が密接な関係があることが分かります。20節にある「神様から差し出されている和解を受け入れなさい」という命令の理由、結果が21節に記されている「神の義」となるわけです。神様の和解を受け入れるということは、神様との愛の関係の回復を意味します。ですから、「神の義となる」とは「神様のとの愛の関係」「本来神様と人間のあるべき関係」を意味しているのです。

「神の義」とは、ことばの表面的な意味では「神様の正しさ」「神様の前での正しさ」となるわけですが、その「正しさ」とは律法を犯すことがない完全な正しさではないのです。もちろんん、私たちが罪を犯さないことを神様は望まれているのですが、もっと重要な事は罪を犯さない動機付けなのです。神様が懇願されていることは、私たち人間が神様の愛を知り、その愛を受け取り、神様を愛する者になるということなのです。私たちが神を犯さなくなるということは、私たちが神様を愛する時に起こる結果なのです。神様が本当に望まれていること、神様にとって本当に正しいことは、つまり「神の義」とは、罪深い私たちを愛し、忍耐強く和解を待ち続けてくださっている神様の愛に応え、私たちが神様を愛することなのです。

②根深い勘違いを切り捨てる
依然として自分の罪深さのために、自分は神様との愛の関係を持つことができないと勘違いしているクリスチャンが大変多くいるようです。聖霊の働きによって自分の罪深さがより明らかにされる時に、神様の愛、赦しに不安を覚えたり、神様に対して後ろめたさ、罪悪感のを覚えてしまうのです。しかし、ちょっと考えれば、この感覚が完全に間違ったものであることが分かります。神様は、私たちが罪責感の中で生きることを懇願されているのではありません。神様との愛の関係の中で、平安と喜びを覚えながら生きていって欲しいの思われているのです。ですから、罪の問題を自分の力で克服できない私たちのために、御子を救い主として与えてくださったのです。私たちは、この神様の愛に動かされ、変えられていくのです。律法の命令によってではなく、神様の愛によって、少しずつ聖さを選びとることができるようになっていくのです。

律法によって生きる人は、自分や他人をさばきながら、罪責感、他者批判からくる怒りや失望の中に生きていきます。しかし、神様の愛と赦しの中に生きるものは、受け入れられている安心感、励ましを受けながら、自他の罪深さも受け入れながら生きていくことができるのです。

【祈り】
《ピリピ3章》
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

アーメン

デイリーディボーション 大谷 信道


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