デイリーディボーション 10月31日(金)

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デイリーディボーション 10月31日(金)

2014年10月31日(金)

2コリント 10:12-13
12私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。13私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。

【ポイント】
①「比較」という誘惑
人間は、自分と自分以外の人を比較するという行為を本当的に行っています。比較をする原動力は自分が他の人よりも多くのものを手に入れたい、より強い力を手にしたいという欲望です。物資的、精神的な優位に満足や快感を覚えるのです。本能ということばを使いましたが、この現象は人間だけでなく、動物の世界にも見ることができる、とても原始的な欲求なのです。つまり、この欲望に支配されているとしたら、私たち人間がたの動物と変わらない存在になってしまうわけです。

「比較」の中に生きるとき、人間は決して平安、満足を覚えることはありません。「お山の大将」のように、狭い世界で一番だと思い満足していたも、そこを離れれば、自分より優れた人がいるからです。自分が比較の中で劣等感を覚えなくなるためには、一番であり続ける必要があります。そして、それは究極的に神様になるということなのです。エデンの園での悪魔の誘惑のことばを覚えているでしょうか。「・・・あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、・・・」(創3:5)
しかし、この誘惑の行き着く先は絶望なのです。なぜなら、人間は神様になれないからです。

多くの人は、人生の歩みの中で「諦めること」「妥協すること」を学び、現在の自分に満足しようと努力するようになります。そうでないと、自分が惨めに見えてしかたがないからです。この作業は決して悪いことには見えませんが、冷静に考えると、結局「お山の大将」に戻ることにほかなりません。比較の対象の基準を自分なりに勝手に下げて、その中では自分は優れたものであると、自分を納得させているだけなのです。結局「比較」という世界の中に生きている限りは、心のどこかで劣等感や失望を覚えながら、生きていくことになるのです。

心の奥底に優位に立ちたいという欲求を押し込めている人は、人生のどこかで自分が優位に立てるチャンスに遭遇すると、それをこらえきれず、コリントの教会の一部がパウロに対し自分の優位を勝ち取ろうしたり、証明しようと躍起になってしまったように、他の人と衝突してしまうのです。

②本当の平安、満足を得る
しかし、神様は人間をそのような存在として創造されたのではありません。神様に似たものとして、神様の愛の中で平安と満足を覚える存在として人間を造られたのです。比較の世界から抜け出し、本当の平安と満足を覚える唯一の方法は、キリストの愛、神様の愛の中に生きることです。人間の相対評価から、神様の絶対評価(愛)に切り替える時に、私たち人間は、この世の優劣、自分が創りだした優劣という不自由な行き方から、自由にされるのです。

【祈り】
《ガラテヤ5章》
15もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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