デイリーディボーション 11月10日(月)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月10日(月)

2014年11月10日(月)

2コリント 11:16-19
16くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。17これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。18多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。19あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。

【ポイント】
①パウロの皮肉
パウロの素晴らしいところは、今日の箇所のように「個人的な考え」と「主のみこころ」をはっきりと区別して話をする点です。といっても、これはパウロが「建前と本音」の中で生きていることを意味しているわけではありません。パウロは、偽使徒たちのように自分のことを誇ったり、自慢したりすることは主の御心ではないという確信を持っていました。なぜなら、ヨハネ5章19節でイエス様で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」と教えられているからです。実際、福音書のイエス様の歩みからは「自慢」という行為は全く見ることができないのです。

ところが、この世では「自慢すること」だけではなく、「自慢される」ことも好きな人が多いのです。例えば、本の著者、講演会のスピーカー、教師、医師などの学歴、職歴、地位などが気になってしまうのです。その本人は自慢しているつもりはなくても、学歴などを聞いて喜ぶ人がいるのです。そのような人たちは、学歴や経歴が自分にとって「凄い」と思える人の話、指導は喜んで受けるけれども、そうでない人は軽くあしらってしまうというようなことが起きてしまうのです。コリントの教会の中にもそのような人たちがいたのでしょう。パウロから見れば不誠実な偽使徒たちに対しても、コリントの教会のある人たちは、彼らの「自慢」「自己推薦」を喜び(だまされ)、厚い信頼を寄せてしまったのでしょう。

ですから、パウロはそれが主の御心ではないことをよく理解していながら、コリントの教会の人たちが「自慢話」が好きで、そのほうがメッセージが伝わりやすいのであれば、あえて「自慢話」をしましょうと、皮肉を込めて話しているのです。

【祈り】
《1サムエル16章》
6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。
7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

《イザヤ53章》
2彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


side_worship side_info