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2013年6月3日(月)
ヘブル人への手紙 10:28
28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
【ポイント】
①最も重い罪は「愛の関係」を壊すこと
律法では、「神様との関係をいい加減にした者」「親子の関係をいい加減にした者」「夫婦の関係をいい加減にした者」「配偶者以外との性的な関係をもった者」「殺人を犯した者」は死をもって罪を償うように規定されていました。(参:出エジプト21章、レビ記20章)
興味深い点は、「死刑」については、「殺人」以外は、すべて「聖なる関係」が破られた時に適応されていることです。聖い関係とは「神様と人との関係」「親子関係」「夫婦関係」の本来あるべき「愛の関係」です。この「愛の関係」が崩れる時に、すべての秩序、価値観、倫理観も崩壊していくのです。つまり、律法の本質は「愛のルール」であり、そのルールの細かい適用が一つ一つの決まり事なのです。
②愛の律法は今も何一つ変わっていない。
イエス様は、この事を極めて明確に教えて下さいました。
37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38これがたいせつな第一の戒めです。39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
③愛の律法の適用の優先順位を知る
愛の律法は「博愛主義」を教えているのではありません。愛の律法を全うした結果は「博愛主義」的は姿になるでしょう。しかし、そこへ至るプロセスを間違えてはなりません。モーセの律法からはその明確な順番を知ることができます。まず第一は「神様を愛すること」です。これはイエス様のことばからも明らかです。問題は次です。次のグループは「信仰の兄弟姉妹」です。つまり、「互いに愛し合いなさい」というキリストの命令を受けている者の群れです。そのグループの中の優先順位は次の通りです。結婚している場合はクリスチャンである配偶者が2番目となります。子どもはいずれ、父母の元を離れる存在ですから、しかし、配偶者は一生を共にする伴侶です。子どもを配偶者よりも順位を上にしてはならないのです。(この順位付けを間違ってしまう人が多いようです。)
子どもにとっての一番の苦しみは、夫婦が傷つけ合うことです。本当に子どもを愛しているのであれば、夫婦の愛を揺るがぬものにすることです。そして、子どもがいる夫婦は、その次が子どもとなるわけです。そして、結婚していない人は、信仰を共有している両親が一番になります。
そして、モーセの律法によれば、信仰の共同体の中での神様、夫婦、親子の愛の関係を壊すことは「死刑」最も重い罪とされているほど、その関係が大切なものとして教えられていたのです。
④クリスチャンでない配偶者、両親はどうすればよいの?
もちろん、全力を尽くして愛して行きます。クリスチャンであるあなたは「互いに愛し合う」というキリストの愛の律法が与えられています。しかし、クリスチャンでない配偶者、親はそのような絶対的な命令の中に生きているわけではありません。ですから、クリスチャン同士の愛の関係とは別物であることを知っている必要があります。
もちろん、配偶者、両親がクリスチャンでなくても素晴らしい関係を築くことは可能であることは言うまでもありません。問題は、そうでない時です。自分で選び、愛の関係を約束した配偶者とは違い、自分では選ぶことができなかった両親との関係は難しい場合があるでしょう。自分は両親を愛し、また両親からの愛を期待していても、両親からその愛が返ってこないというケースも多々あることでしょう。正直に言えば、どうしても尊敬できない、愛することができないという事もあるでしょう。その時は、キリストの愛の律法を犯していることになるのでしょうか。決してそうではありません。
ここで、優先順位が大切になります。優先順位の高いものから取り組んで行くのです。神様が望まれているのは、愛するべき対象を同時に、同程度に関わっていくことではありません。これは、神様だけが可能な業です。先にも触れましたが、配偶者は自分の意思で選び、愛する事を決めた相手ですから、クリスチャンであろうが、なかろうが愛の関係を築く最優先人物です。そして、その愛の行動が、最高の証しになり、キリストの愛を知るきっかけとなるのです。
互いにクリスチャンである夫婦は、さらに強い思いをもって、互いに愛しあい、赦し合い、受け入れ合い、尊敬し合うことに取り組むことができることは言うまでもありませんし、さらに高い次元の愛を神様から求められていることを重く受け取る必要があるでしょう。
【祈り】
《1ヨハネ3章》
21愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、
22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。
23神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
ライフチャーチ牧師 大谷 信道