誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2013年4月26日(金)
ヘブル人への手紙 6:7-10
7土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。8しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。9だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
【ポイント】
7節でも続けて、「堕落(救いを失うこと)」に対しての警告が続いています。しかし、9節からは「励まし」のメッセージに一転します。
①愛ゆえの警告を受け取るためにも「成熟」が必要
思春期の子どもが親の注意、警告に反抗することは自然なことです。それは子どもの正常な発達の証拠でもあります。しかし、反抗期は親にとっては辛い時期です。子どもから反抗されても、親はその愛ゆえに、子どもが正し判断、選択を下すことができるように、賢く、忍耐強く導き続ける必要があるからです。その丁寧な関わりは、子どもの「成熟」の助けとなり、こどもは親が自分に対する愛ゆえに、時には厳しく導いてくれたことを理解できるようになるわけです。
②警告の厳しさは、愛の大きさに比例する
同じように、9節にヘブル書の著者が厳しい警告を発している理由を見ることができます。「愛する人たち」という呼びかけから、著者の読み手に対する愛の姿を見ることができます。思春期の子どもと同じく、「未成熟」なクリスチャンほどヘブル書の著者の「暖かさ」「真剣さ」、そして、これを書かせている神様の「愛」を受け取ることに難しさを覚えたり、躓きを覚えたりするでしょう。しかし、その厳しさの度合いは読み手に対する著者の愛に比例していることがわかります。
③成熟を邪魔する、私たちの歪んだ感受性の問題
神様の厳しさの中に、その愛の大きさを見出すことが出来ない原因の一つは、私たちの歪められてしまった感受性(ものの受け取り方)です。その問題は、自分の感じ方の間違いに気が付かず、反対に自分の感じ方こそが正しいと確信してしまうことです。ですから、「神様があなたを愛しています」という聖書の真理、絶対に間違いのない事実を告げられ、頭でそのことを理解しても、依然として「そんなはずはない」と心のどこかで疑ってしまうのです。これを簡単に「不信仰」と片付けてしまってはいけません。なぜ、ちょっと厳しいメッセージを聞くと、自分の信仰が全否定されたかのように感じてしまうのか、整理して考えるころが大切です。あなたは、その時の「感情」や「気分」を「真理」よりも大事にしてしまっていること、時には絶対化してしまっていることないでしょうか。
④神様の「正しさ」は、私たちの感受性を正しい方に導く
しかし、ここに簡単な解決策があります。それは神様の正しさを信じることです。あなたが今日のどんなに気分が落ち込んでいても、神様の愛を感じ取ることが出来ないと思っていても、神様に対する罪悪感を覚えていても、自分の信仰の薄さを嘆いても、神様の厳しいメッセージに難しを覚えていても、それは神様のあなたの愛に何ら影響を与えるものではないということです。あなたの神様に対する感情、愛の受け取り方は、その日の体調、気分などによって変わってしまうかも知れませんが、神様は正しい方なので、あなたへの愛を決して変えることはありません。これが神様の正しさなのです。
【祈り】
《箴言3章》
5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
6あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
7自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
8それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道