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2012年10月23日(火)
ヨハネの福音書 8:39-43
39彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。40ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。41あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」42イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。43あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
【ポイント】
ユダヤ人達はイエス様が実際の血筋の話をしているのではないことに気が付きます。そこで、ユダヤ人達は自分たちを正当化する理由として、自分たちは血筋によってだけでなく、神様から選ばれた、霊的な意味での神の子であると主張します。奇しくもここでユダヤ人達は大切な事実を思い起こしたわけです。それは、ユダヤ人の祝福の本当の理由はアブラハムの遺伝子を受け継いでいるからではなく、神様の祝福の約束によるのだということです。しかし、神様から遣わされたキリストを認めず、殺意を覚えることは、アブラハム意思にも反することであり、アブラハムに祝福の約束をした天の父の御心にも反することであることに、ユダヤ人は気付ことしません。
イエス様はその理由を「それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」と指摘します。真理に耳をかたむけないこと、実際にことばを聞いていても、悟らず、気付かないという問題は、預言者達が繰り返し語っています「あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。」(イザヤ42:20)
「 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。(エレミヤ5:21)「
だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」
(エゼキエル8:18) 神様の本当の声に耳を傾けようとしないイスラエルの民に神様は繰り返し警告を発してきました。しかし、ここにいるユダヤ人達は、自分たちの祖先と同じ間違いを犯していることに気づかないでいるのです。イエス様のことば、イエス様のしるし、イエス様のおこないそのすべてを総合すれば、イエス様が神から遣わされた者であることは明らかです。しかし、ユダヤ人はその罪深さのために、イエス様のことばを聞くことができませんでした。
私たちクリスチャンは、神様の恵みにより、キリストのことばを聞き、信じ、受け入れる者とされました。でも、はじめからそうであったわけではありません。最初にキリストの福音を聞いたときは、興味も持たず、馬鹿馬鹿しいとさえ感じたのではないでしょうか。しかし、神様の導きに依り、私たちの周りに、福音の種を巻き続けてくれた人達がいたのです。あきらめずに、教会に誘ってくれる人、みことば入りのカードを送ってくれる人、繰り返し福音を語ってくれる人を神様が備えてくださっていたのです。私たちも、心を頑なにしているユダヤ人に語り続けるイエス様の情熱と愛に動かされましょう。あきらめずに、イエス様の愛を語り続けようではありませんか。
【祈り】
「主よ、あなたの愛と忍耐に感謝します。その忍耐によって私たちは救われました。依然として、あきらめず、忍耐をもって導いてくださるあなたに感謝します。そのようなあなたに今日もすべてを委ねます。あなたのみことばにしっかりと耳を傾ける者としてください。イエス様のお名前で祈ります。」
ライフチャーチ牧師 大谷 信道