デイリーディボーション 9月27日(土)

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デイリーディボーション 9月27日(土)

2014年9月27日(土)

2コリント 5:15-17
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

【ポイント】
①新しく造られたとは?
17節は大変有名な箇所ですね。暗唱できる方もたくさんいるのではないでしょうか。ただ、暗唱聖句になっているような箇所ほど、もともとも文脈が完全に無視した状態で理解されていることが多いようなので、昨日の15節と16節を一緒に載せておきました。

17節では、キリストを信じるものは「新しく造られた者」「すべてが新しくなりました。」と宣言されています。しかし、私たちは何がどう新しくされたのかをきちんと理解しなければ、パウロが本当に伝えようとおもったメッセージを受けることができません。パウロはキリストを信じる前と後で、私たちの何がどのように変わったのだと言っているのでしょうか。私たちの人生がリセットされ、心機一転もう一度人生を前向きに生きるチャンスが与えられたということでしょうか?確かに、キリストを信じる結果として、自分の人生をもう一度やり直そうという思いが与えられるかもしれません。実際、罪が赦され、罪責感からも自由にされることは、もう一度真っ白な状態から人生を始める良い機会となるわけです。

ただ、ここでのパウロのポイントは単なる「新しい人生」というぼんやりしたものではないことに目を留めましょう。新しい歩みの具体的な姿、その本質は15節にはっきりと記されていましたね。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」そうです。新しい人生とは、自分のために生きる人生をやめ、キリストのために生きる人生を歩み始めることなのです。私たちがイエス様を信じ、罪が赦され、永遠の命が与えられた理由は、私たちが「自分のためではなく、自分のために死んでよみがえってくださった方のために生きるため」なのです。これが新しい人生なのです。反対に、もし私たちがキリストのために生きる人生を始めていなければ、依然として古い人生、古い生き方を生き続けることになってしまいます。

しかし、パウロはキリストのために生きることのほうが、はるかに喜びに満ちた人生だと告白しています。祈りの中でその告白に耳を傾けてみましょう。

【祈り】
《ピリピ3章》
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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