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2013年3月28日(木)
「キリストは多くの人の贖いの代価(身代金)となるために苦しみ、死なれた。」
マルコ10:45
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
【ポイント】
「贖いの代価」ということばは、正直なところ普段は使わない難しい言葉ですね。新共同訳聖書では「身代金」と訳されています。これも、誘拐事件の犯人の要求に応じて、人質の解放のために払われるお金をイメージしてしまうのが普通ではないでしょうか。しかし、誘拐事件において身代金を支払うとは、犯人に対する妥協であり、悪に対する敗北を意味します。それは、決してイエス様の十字架の際に起きた出来事ではありません。イエス様の十字架は、サタンと交渉して譲歩を引き出したわけではありません。その正反対なのです。悪魔の策略に対して完全な勝利をおさめたのです。
「贖いの代価」とは、奴隷が自由人となるために所有者に支払われるお金、囚人が自由になるための保釈金を意味します。悪に対する妥協ではなく、法的な手続きに従い、自由を束縛されている人を自由にするための代価なのです。ここで大切なことは、そのお金が誰に支払われるかという事ではなく、奴隷、囚人が自由にされるために、対価が支払われたということです。奴隷も、囚人も自分で贖いの代価を支払うことができません。そのようなお金があれば、奴隷にはなっていないのです。罪の奴隷も全く同じです(ヨハネ8:34)。奴隷であるということは、自力でその状態から自由になることはできないということなのです。唯一の自由への道は、自分以外の誰かが贖いの代金を支払うことです。
ここで大切なことは、自由のために大きな代価が支払われたことであって、その代価を誰が受け取ったかということではありません。人間のいのちを贖うためには、人のいのちが必要となります。イエス・キリストは、「人の子」として、ご自分のいのちを、私たちのいのちの代価としてくださったのです。なんと大きな犠牲でしょうか。
【祈り】
ヘブル9章
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道