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2014年10月3日(金)
2コリント 6:6-10
6また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、7真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、8また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、9人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、10悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。
【ポイント】
①真実を見極める大切さ
イエス様を見た人のある人は「あれは悪霊につかれて気が狂っている。」(ヨハネ10:20)と言い、また他の人達は「「この方はまことに神の子であった」(マルコ15:39)と言いました。しかし、聖書を読めば明らかですが、イエス様は常に変わることなく、キリストとして歩まれました。パウロにも同じようなことが言えます。ある人たちからは「ほめられたり」「好評をはくしたり」していたのに、別の人からは「そしられたり」「悪評を受けたり」していました。そこでパウロは、自身の神様からの召しと、その召しに誠実に従ってきた歩みについて弁明しているわけです。
しかし、何が原因でイエス様は使徒パウロについての意見がそこまで分かれてしまうのでしょうか。その原因の一つは、イエス様やパウロが自分の都合の悪い話をすることにあります。真理、義について聞かされると、罪深い私たちの中には二つの反応が起きます。一つは、そのメッセージを認め、悔い改め、新しい生き方に進んでいきたいという思いです。もう一つは、「おまえからそのようなことを言われる筋合いはない」と、たとえメッセージが真実であると心のどこかで分かっていたとしても、それを拒絶し、それを語った人に敵意を覚えてしまうことです。
②聞きたいメッセージ&聞きたくないメッセージ
私たちは、慰め、救い、平安が「与えられる」メッセージが大好きです。何か自分にとって喜ばしいもの貰うためには一生懸命になります。しかし、何らかの犠牲や痛みを伴うメッセージには耳を塞ぎたくなってしまうのです。しかし、イエス様もパウロもこのような人間の心理をよく理解しながら、真理だけを語り続けました。例えばマタイ16章のイエス様のことばを聞いてみましょう。「24だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」多くの人は「イエス様に従う」「自分を捨てる」「十字架を負う」「わたしのためにいのちを失う」というメッセージが好きではありません。しかし、「いのちを救う」「いのちを得る」という部分は大好きなのです。
しかし、私が与えられている使命は、人々が喜ぶことばを語ること、人々を喜ばすことではありません。私たちが与えられている使命は、イエス様の真理を語ること、神様を喜ばすことなのです。多くの教会はこの世のニーズに応えることに必死です。しかし、本当のニーズは霊的なニーズであることに気が付かなければならないのです。イエス様が伝道を始めた際の最初のことばは何だったでしょうか。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)多くの人は
「悔い改め」のメッセージを嫌がるでしょう。しかし、それを知りながら悔い改めと福音両方を語ることが求められているのです。
そして、クリスチャンである私たちは、自分としては避けて通りたいようなメッセージであっても、それに聞き続ける素直さが求められているのではないでしょうか。
【祈り】
《2テモテ4章》
2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道