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2013年4月13日(土)
ヘブル人への手紙 4:14-16
14さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
【ポイント】
キリストの「恵み」の価値を理解するための一番良い方法の一つは自分の罪深さを直視することです。罪の汚れを持ったままで神様の裁きの座に立つことがどれだけ恐ろしいことなのかを知る必要があります。多くの人は、目の前にある苦難やストレスの原因となる問題(進学、就職、結婚、キャリア、お金、身体の健康、心の健康、人間関係)が絶対に越えることができない壁のように立ちはだかって、自分の人生を大変不幸せにしていると感じています。しかし、本当に罪の問題の深刻さを理解していれば、目の前にある悩みや苦しみがずいぶん小さなものに感じるはずなのです。反対にそのように感じることができないとしたら、比較にならないほど大きな問題である罪について、そして、キリストによる罪の贖いについて本当に理解していないということになります。
例えば、航空機の墜落事故が起こり、レスキュー隊員が何人も犠牲になる中で奇跡的に救助された人がいたとします。その人がテレビ局のインタビューで、自分は事故のせいで大切な就職試験を受けられなかったといって落ち込んだり、怒っている姿を見たとしたら、あなたはどのように思うでしょうか。しかし、私たちクリスチャンもこの人と全く同じようなことをしている可能性があるのです。「恵み」の生活に慣れ、「罪の赦し」、「救い」が当たり前になっていく時に、喜びが「不満」に変わり「つぶやき」が口から出てくるのです。ここに、エジプト脱出したイスラエルの民と私たちの共通点があるのです。
しかし、私たちには決定的な違いがあります。それは、モーセでもなく、不完全な人間の大祭司でもなく、救い主イエス・キリスト、真の大祭司イエス・キリストがいらっしゃるのです。私たちが罪を犯した時にするべきことは、神様から離れることではなく、大祭司であるイエス・キリストの「恵みの御座」に近づくことができるのです。しかも、この大祭司は私たちの弱さを責め立てたてる方ではなく、私たちの弱さに「同情」し、100%理解してくださる方なのです。
今日もこの大祭司であるキリストと親しく語り合う時間をとってみましょう。
【祈り】
《ローマ8章》
34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
ライフチャーチ牧師 大谷 信道