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2014年9月25日(木)
2コリント 5:13-14
13もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
【ポイント】
①パウロは気が狂っていた?
13節の「もし私たちが気が狂っているとすれば」発言はどこから来たのでしょうか。第一に考えられることは、コリントの教会の中で「パウロは気が狂っている」と避難する人がいて、そほ人への反論であるということです。実際、使徒の働き26章ではパウロの福音に対する熱心さゆえに次のように非難された場面を見ることができます。「24パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』と言った。25するとパウロは次のように言った。『フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。』」
第二には、コリントの教会の中で「パウロは宗教的狂気、恍惚状態の経験の証拠がないので、パウロの働きは本当に意味で霊的ではあり得ない」と批判する人たちへの反論と考えることができます。つまり、パウロは自分は恍惚状態であろうが、正気であろうが、自分が行っているキリストの福音を宣べ伝える働きは純粋に神様からの召しによるものであるということを説明しているわけです。
②パウロはキリストの愛に動かされていた
究極的には、パウロにとってコリントの教会からどのような批判をされようが、彼の働きには何の影響もありませんでした。もちろん、心ない批判は彼にとって喜ばしいものではなかったでしょうし、何よりよコリントの教会がキリストにあって一致することができていない状態は、パウロの大きな悩みでもあったことでしょう。しかし、それらの出来事は彼の使命、彼とキリストとの関係に影響を及ぼすことはなかったのです。その大きな理由は、10節にあった通りです。「10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」つまり、パウロは自分の働きが自分の利得や栄誉のためではなく、神の栄光のために行っていること、さらに、それは神様からの罰を恐れ、義務感の中で行っているのではなく、キリストの愛を受け、キリストへの愛のために行っていることが、神様の前で明らかだという確信があったからです。
祈りの中でヨハネの福音書の最後にある、イエス様とペテロの会話を、自分とイエス様の会話として考えてみましょう。
【祈り】
《ヨハネ21章》
17イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが
三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛
することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道