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2014年12月13日(土)
【通読】
ガラテヤ 2:21
21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
【ポイント】
①合格好きの人は注意
この世には、入学試験、資格試験など様々な試験があります。中には、資格取得を趣味としているひともいるそうです。その楽しみは知識や技能の習得だけでなく「合格」することなのでしょう。資格、卒業証書、合格証書は形として後に残るものでもあり、自分の努力の結果を見える形で手にすることができるわけです。
信仰の世界でも、このような目に見える「合格」「資格」を好む傾向があるようです。たとえば、仏教の世界では「悟り」「解脱」などという信仰の歩みに明確な段階、ステージのようなものがあるようです。その段階に合格するために修行を重ねるわけです。僧侶の中にも階層が存在し、上に上がっていくためには、様々な試験のようなもに合格する必要がある場合もあるようです。残念ながらカトリック教会の中にも、そのような階層(ヒエラルキー)が存在するようです。また、異端的なプロテスタント教派の中には、「異言」を救いの条件としているグループも存在します。つまり、異言が語れなければ救いについては不合格となってしまうわけです。そこまでいかなくても、異言を語ることができる人はファーストクラスクリスチャン、そうでない人はセカンドクリスクリスチャンなどの階級を暗黙の了解の中で設定しているグループもあるようです。
しかし、そのような考え方は、神の恵みを無にするものであり、キリストの死を無意味にするものであることを理解することが極めて重要です。私たちは神様の一方的なあわれみによって救われ、神の子としていただいたのであって、そこには人間的な努力、修行などが入り込む余地はないのです。救われたクリスチャンの間に階級を設けるような行為は、まさに「どんぐりの背比べ」であって、神様の目から見たら全く愚かであり、無意味な行為であることを知るべきなのです。「異言」の問題にしても、それは神様から無償で与えられる「賜物」であって、それは私たちの努力や修行の結果ではありません。もし、神様の恵みをきちんと理解していれば、無償で頂いたものを誇ったり、自分の優位性の証とするような感覚が出てくるはずもないのです。
【日曜礼拝の中心聖句】
ローマ人への手紙 5:8-11
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
【今週の適用と実践】
・続けて、クリスマスを迎えるにあたり、この世闇の中にあるという現実を直視してみましょう。
・家族、友人が闇の中で迷い、苦しんでいる姿に痛みを覚えましょう。
・実は、人々が一番必要としているのは「神様の愛」であることを再確認しましょう。
・この世の全ての問題は「神様の愛」によって解決されるという確信、信仰を深めましょう。
【今週の祈り】
「主よ、この世のほとんどの人があなたの愛と赦し、永遠の命の喜びを知らずに生きています。不安の中で、いつも人からの評価が気になって仕方がありません。他人との優劣を比較し、自分が劣っていると感じると落ち込み、優れていると感じれば有頂天になります。ですから、いつも気分は上がったり下がったりし、安定することがありません。ですから、変わることがないあなたの愛が必要なのです。なんとかして、不安や恐れの中にあるこの世の人たちに、あなたの愛を伝えることができるように、私たちを用いて下さい。」
ライフチャーチ牧師 大谷信道