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2013年6月29日(土)
ヘブル人への手紙 12:3
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
【ポイント】
①信仰の歩みに疲れを覚えることがある
霊的に成長すれば、信仰の歩みが喜びだけに満たされるようになるというような幻想を抱いてはなりません。どのように鍛えても肉体の疲れを覚えない体をつくり上げることができないのと同じです。神様の計画に従って歩むことに疲れる時、私たちは2つの選択を迫られます。一つはキリストを見上げ忍耐をもって歩みを続けることを決意すること。この選択肢を選べない時に、つぶやいたり、諦めたりしてしまうのです。疲れを覚えることは自然なことです。しかし、その時にキリストを見つめ、キリストの忍耐を思い出し、自分もその忍耐を模範とする方を選びとるのです。
②問題は気が緩んだ時に起こる
本当に困難の中にある時は私たちは必死になりますから、つぶやいたり、不平不満をもらす余裕すらありません。しかし、大きな問題が去り、心に余裕ができる時が危険な時間帯です。エジプトを脱出したイスラエルの民も、エジプト軍の追跡をかわし、いのちが助かったと思った頃から、つぶやき始めました。生きていることが感謝ではなく、当たり前になった瞬間に、空腹であることが不満になってしまったのです。(出エジプト16章)
そのような時に疲れも覚えるのです。
救われていることが当たり前になる時、罪が赦されていることが当たり前になるとき、愛されていることが当たり前になる時、生活が安定していることが当たり前になる時こそが誘惑の時なのです。自分が手に入れたいと祈り求めたことがらが与えられると、キリストとの関係をおろそかにし始める傾向があることを覚えておくことが大切です。
③罪を覚える時、疲れを覚える時こそキリスト
ですから、信仰の歩みの典型的な失敗は、罪の意識にさいなまれる時、疲れを覚える時に、キリストとの交わり、教会の交わりから離れようとすることです。しかし、ヘブル書の著者が教えている通り、その時こそ、キリストと交わることが大切なのです。その具体的な適用はキリストの体である教会、主にある兄弟姉妹との交わりを続けることです。精神的、肉体的に疲れた時ほど、日曜の礼拝、ライフグループを大切にするのです。不思議なことに、礼拝や交わりの後に疲れの癒しや、気分が爽快にされていることに気が付くのです。
【祈り】
《ヘブル》
24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道