デイリーディボーション 4月6日(土)

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デイリーディボーション 4月6日(土)

2013年4月6日(土)

「キリストは私たちを最後の審判から救うために苦しまれ、死なれた」

ヘブル 9:28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

【ポイント】
聖書は最後の審判についてはっきりと教えています。「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10:27)、「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。29私たちの神は焼き尽くす火です。
」(12:28-29) 使徒ヨハネも黙示録14章でこのように記しています「9もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」

最後の裁きの信仰が抜け落ちる時に、イエス様の十字架の価値はほとんど無意味なもの、表面的なものになってしまいます。先の黙示録はこのように続きます。「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」(黙示録14:12)
クリスチャンに与えられている究極的な希望と喜びは最後の裁きからの救いの約束から来ています。しかし、この信仰を見失う時に、「聖徒たちの忍耐」を忘れ、クリスチャンは今日喜んでいること、今日満たされていることを求めるようになってしまいます。教会もそのような身勝手な要求に応えるために、多くのミニストリーを創出し始めます。

現代人は「特効薬」が大好きです。そして「忍耐」が大嫌いです。教会もその風潮に流されてはいないでしょうか。今感じている苦しみから自由にされる方法について、手を変え品を変え教えようと必死です。「こうすればクリスチャン生活が素晴らしいものになる!」的な本もたくさん出版されています。なぜなら、そのほうが人気が出るからです。「忍耐し続けよう!」という本は売れないのです。しかし、聖書は「忍耐」について、繰り返し教えています。それは、「意味のない我慢」ではありません。「確かな希望に基づいた忍耐」なのです。それは、イエス・キリストが「彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる」という希望です。この希望のために、イエス様は苦しまれ、死なれたのです。

【祈り】
《ローマ5章》
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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