誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2014年10月9日(木)
2コリント 7:5-7
5マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。6しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。7ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
【ポイント】
①親心と伝道者の心の類似点
親は自分の子どもが成長し、幸せに生活をしているのを見て心からの喜びを感じるものです。未熟な親の中には自分の期待を子どもに押し付けてしまう親もたくさんいます。子どもが優秀な成績、学歴、運動量力、様々な技能を身につける時にこの上もない喜びを覚え、子どもが自分の期待を下回るとき、思い通りに行動ない時に失望や苛立ちを覚えてしまうのです。しかし、成熟した親はそうではありません。自分の子どもがどのような状況の中にあっても幸せを感じながら、平安の中に生きていくことに喜びを覚え、そのために必要な援助、導きを行っていきたいと思うのです。ですから、子育ての思いは子どもが学校を卒業したり、就職して経済的に自立したからといって終わるわけではないのです。結婚すれば、その結婚相手を愛していくことができているのか、子どもができれば、きちんと子育てをし、幸せな家庭を築いていくことができるのか、一定の距離を保ちながらも、常に祈るような思いで見守り、必要な援助をしていきたいと思うのです。子どもがどのような学歴、職歴、地位を築こうとも、その家庭が幸せでなければ、親の心にも平安はないのです。自分もそうでしたが、若いうちは、そのような親の感覚は分からない場合が多いようですね。
パウロを見ていると、良い伝道者は、成熟した親と同じような視点で教会に集まる一人ひとりを見ていることに気が付きます。誰かがイエス様を信じ、救われる以上の喜びはないのですが、伝道者の働きは決してそこで終わるわけではないのです。救われ者が、キリストの愛の中で平安に過ごし、教会の群れの中で互いに愛し合う歩みを続けていくことができるのか、常に心を配り、祈り、援助をしていくのです。自分の働きを通して何十人、何百人の人が救われようとも、その人たちがキリストの愛を受け、互いに愛し合う歩みをしていなければ、心の底から喜ぶことはできないのです。パウロがマケドニアで感じていた不安の原因は定かではありませんが、テトスから聞いたコリント教会についての良い知らせによって、パウロは慰められ、喜びにあふれたのです。
②親と伝道者の悩み
また、親と伝道者は共通の悩みがあります。それは、相手の代わりにはなれないということです。自分がどんなに一生懸命になっても、最終的には相手が成長し、自立できなければ、ある一定以上の援助はできないことです。自分が子どもの代わりに宿題をやることも、試験を受けることも、会社の仕事を引き受けることもできないのです。相手を信頼し、忍耐強く待ち続けたり、手を出さず見守り続けたり、時には、心を鬼にして相手を突き放したりすることも必要なのです。自分の一生懸命な関わりが、相手の成長を阻害してしまう場合があるのです。ここに、良い親、良い伝道者としての姿勢、スキルが問われ、パウロも苦心していることがこの後の箇所からもよく分かります。
【祈り】
《2コリント11章》
28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道