デイリーディボーション 10月14日(火)

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デイリーディボーション 10月14日(火)

2014年10月14日(火)

2コリント 8:1-2
1さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

【ポイント】
①ユダヤ教会への援助の目的
パウロは、飢饉などのために、経済的に困窮していたユダヤ地域の教会、その信者たちを援助するための献金を集めていました。アンテオケ教会はこの問題に素早く対応し、バルナバとパウロに援助を託し、送り出しました(使徒11:27-30)。また、1コリント16章1-4節を見ると、パウロはガラテヤの教会ですでに献金を募り、コリントの教会でも同じように協力するように求めていることが分かります。そして、2コリントが書かれた時点では、マケドニアの教会でも、献金が行われたことが、今日の箇所から分かります。

実はパウロのこの働きは、単に物質的な必要を満たすためのものではなく、エルサレムを中心とするユダヤ人中心の教会と、パウロが関係している異邦人中心の教会の一致を促すものであったことが分かります。例えば、ローマ人への手紙15章25-26節を見てみましょう。「25ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。26それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。27彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。」

②捧げる者の姿勢と信仰
「惜しみなく施す」ということばは何を意味しているのでしょうか。それは、彼らが捧げたものは、「物惜しみ」「出し渋り」を覚えるほどの大きさだったということです。その直前には「極度の貧しさにもかかわらず」という表現からも明らかなように、マケドニアのクリスチャンたちは余裕のある中から、余ったものの中から捧げたのではないということです。これは、聖書の中に見ることができる捧げ物や献金のあり方なのです。心に「痛み」「惜しみ」を覚えないような捧げ物は、捧げ物ではないのです。普通に考えれば「惜しみ」を覚えるものを捧げたからこそ、「惜しみなく施す」という表現が使われるのです。

この点について、勘違いしている人がいるようです。「惜しまずに」という表現を、「献金は惜しさを感じない程度にすれば良い」と理解してしまっている人です。これは、残念なことです。なぜなら、そのような理解では、神様も余裕のある中で、痛みを覚えない程度に、ご自身をささげられたことになってしまうからです。しかし、そうではありません。ローマ8章32節を見てみましょう。「32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」この恵みに対する応答として、私たちも「惜しみなく」施し、捧げるのです。

恵みの応答として捧げるときに、普通は痛みや、惜しみを覚えるものでも、「喜び」のなかで行うことができるのです。私たちは、神様が大きな痛み、犠牲のなかで御子をささげてくださったことに、神様の私たちに対する真剣さ、愛の大きさを知ることができます。同じように、私たちも痛みを覚える中でも、喜びをもって、恵みの応答としてささげることによって、私たちの神様に対す愛が口先だけのものなのか、それもと真剣で純粋なものなのか知ることができるのです。

【祈り】
《マルコ12章》
41それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
42そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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