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(遅くなってしまい申し訳ありません。送信がうまくできていなかったことに今気が付きました。)
2012年10月20日(土)
ヨハネの福音書 8:31-33
31そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。32そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」33彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
【ポイント】
メッセージの中でも度々取り上げている箇所です。実は28節でもイエス様は再び「『私はある』ということを・・・分かるだろう」(新共同訳)と語り、多くの人がイエス様を信じました。厳密には本当に信じたというよりも、信じ始めたというところでした。そこで、イエス様は、イエス様のことばに耳を傾け始めた人達に向かって、信仰の次のステップを明らかにします。もし、イエス様は人々の人気を獲得したり、信じる者の数を多く集めることが目的であれば、30節で話しを終えておけばよかったはずです。人々をキリストを発見した喜びに沸かせておけばよかったのです。しかし、イエス様はそうはしませんでした。
イエス様は人々に向かって「あなたたちは自由ではない」、つまり、「あななたちは奴隷である」と言われました。それは「罪の奴隷」という意味なわけですが、聞いたものは腹を立てました。詳しくは来週触れますが、自分たちはいかなる奴隷の状態にもなったことがないというプライドを持っていたユダヤ人にとっては、屈辱的な発言にも聞こえたことでしょう。そして、イエス様はその奴隷の状態から、自由の状態へと解放することができると宣言されました。そして、奴隷が自由になるためにはイエスが「私はある」という真理を知り、「(イエスの)ことばにとどまる」必要があると説明されたのです。つまり、イエスさまが言っている「真理」とは単なる「知識」ではなく、イエス様を主と認め、イエス様との極めて親密な関係の中で、イエス様のことばに従っていくことなのです。
イエス様を信じかけているユダヤ人は、自分が罪の奴隷となっていることを認めることができるのでしょうか。自分の罪を認めること、その罪の深刻さに直面することは大変つらい作業なのですが、そのプロセスなしにイエス様の自由の中に生きることは出来ないということなのです。イエス様は、つまずく者が起きることを知りながら、そのプロセスを省略したり、簡素化するようなことは、決してしませんでした。ですから、私たちもイエス様が人々を導かれたのと同じ方法で福音を語っていくことが求められているのです。
【祈り】
「主よ、あなたは私たちと真剣に向き合い、関わってくださいますから感謝します。それがどんなに厳しいことであっても、私たちを愛するがゆえにはっきりと語ってくださいますから感謝します。あなたの真剣さから出てくる厳しさを、あなたの愛として受け取ります。今日も私に語ってください。イエス様のお名前で祈ります。」
ライフチャーチ牧師 大谷 信道