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2022年9月30日(金)
ローマ人への手紙 3章25-27節 25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。27それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
【ポイント】 ①「信仰の原理」とは「神様との愛の関係」 残念ながら「信仰の原理」の具体的なイメージを持っていないクリスチャンがいるようです。例えば、「あなたはイエス・キリストをあなたの救い主としてしんじますか?」という質問に「はい。」と答えることが「信仰」であるかのように理解している牧師、宣教師を見かけることがあります。もちろん、「はい」と答えた人の中には、本当に神様(イエス様)に愛に触れ、その愛に応え、神様を愛するコミットメントを持っている人がいると思います。しかし、そうでない人もいるのではないでしょうか。もし、あなたの信仰決心の中に神様を愛するというコミットメントが無ければ、特定の質問に「はい」と答えれば救われること、つまり、特定の「行い」によって救われることになってしまいます。「信仰」ということばを使いながら「行いの原理」によって生きていることになってしまうのです。
さらに、これもライフチャーチでは繰り返し学んでいることですが、「バプテスマ(洗礼)」を受けることが「救い」へのステップだと勘違いしている人、勘違いさせる牧師・宣教師がいます。その証拠に、多くのクリスチャンが、自分が信仰の歩みを始めたことを表現する時に、「わたしは〇〇年に、〇〇先生からバプテスマを受け、クリスチャンの歩みを始めました。」というような言い方をする方が大勢います。アメリカに住んでいるときにこのような表現をするアメリカ人に会ったことがないので、日本独特の現象なのかもしれません。これは、多くのクリスチャンが「行いの原理」ではなく「信仰の原理」によって義とされることを頭で理解しながら、感覚的にはバプテスマという儀式によって救われている(救いの確証を感じている)ことを示唆しています。
神様(イエス様)との愛の関係を中心に考えると、難しい神学的な議論や、先に述べたような現象(勘違い)から自由にされます。つまり、「イエス・キリストへの信仰」が「イエス・キリストへの愛」であり、「信仰による義」が「神様との愛の関係」だと理解すれば、例えば、パウロの手紙も簡単に理解できるようになることでしょう。さらに、これは個人的な思いですが、「パウロは本当にイエス様の愛を喜び、イエス様を愛しているんだな!」と感じるようになることでしょう。
実際のところ、やがてイエス様と直接会うときに、「愛」以外に必要なものがあるでしょうか? 無いですね。ですから、私たちは「信仰(愛)」によって生きるのです。
ライフチャーチ 大谷信道