デイリーディボーション 10月2日(水)

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デイリーディボーション 10月2日(水)

2019年10月2日(水)
ピリピ人への手紙 2:5-8 5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
【ポイント】 ①「謙虚に生きる」ではない。 この個所は「ケノーシス・自分を無にすること」という特別なタイトルがつけられ、イエス様が「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」という、イエス様の想像を絶するほどの謙虚さについて教えられることが多いかと思います。そして、適用のメッセージとして「私たちも、イエス様に倣い、謙虚に生きるべきである!」というような適用がなされることが一般的です。
しかし、ここでのパウロのメッセージの中心は本当に「謙虚に生きる」という倫理的(思想的)な教えあるのでしょうか。もちろん、私たちが「謙虚に生きる」ことは、聖書全体から見ても大切なことです。しかし、この個所に限っていえば、パウロは個人の謙虚さの重要さを教えているだけでないことは、文脈から明らかなのです。2節の「2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」というパウロの命令こそが、彼のメッセージの中心なのです。
ですから、イエス様のご「神のあり方を捨てられた」という姿は、教会の主にある一致を破壊する「自己中心」「虚栄」(2:3)、「自分のことだけ」(2:4)の真逆にあるものであり、私たちがイエス様に倣い「自己中心」「虚栄」「自分のことだけ」を捨て去れば、主にある一致を実現することができるのです。さらに言えば、キリストを信じると告白している者が、キリストの「謙虚」に倣わず、キリストの御心である「一致」を求めていなければ、その人の「信仰」はいったい何を意味しているのかを問われるほどの重大問題だということになるわけです。
「ケノーシス」などという難しい神学用語を用いて、イエス様の謙虚さについて教えたり、議論したりするクリスチャンはたくさんいることでしょう。しかし、どれほどのクリスチャンが、「ケノーシス・自分を無にすること」を自分の教会の一致のために用い、奮闘しているでしょうか。そもそも、キリストの愛による一致がない教会に、この世の誰が魅力や興味を覚えることなどありえないという現実にすべてのクリスチャンが目を向けるべきなのです。
「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34)
ライフチャーチ 大谷信道


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