デイリーディボーション 11月20日(月)

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デイリーディボーション 11月20日(月)

2017年11月20日(月)

【通読】
マタイの福音書 26:26-30
26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」30そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

【ポイント】
①まことの「過越の小羊」はイエス様
イエス様はマタイの福音書5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と告白されています。つまり、イエス様は旧約聖書を完成させられたという事です。

この視点について、使徒パウロはこのように説明しています。「16こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2章)
また、ヘブル書の著者も「1律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」(ヘブル10章)「影」は人や者の形を正確に映し出すものですし、「影」を見ればそれが何の影であるのかを予想することもできます。つまり、「啓示」という観点からすると旧約聖書は「影」のようなものであり、イエス様こそが神様についての完全な啓示であり、イエス様こそが「本体」であるということなのです。

それでは「影」が無意味だということなのでしょうか。決してそうではありません。イスラエルの民は、それがたとえ「影」であったとしても、そこから神様の御心について相当深く知ることができていたのです。さらに言えば「影」があったからこそ、「本体」が現れた時に、「本体」について深く理解できたのです。つまり、弟子たちは、イサクの代わりにアブラハムに備えられた羊(創22:13)、過越の小羊(出12章)、罪の贖いのためのささげもの(レビ5章)などにの「影」をよく知っているので、26節の「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」28節の「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」というイエス様のことばを聞いて、イエス様がご自分を罪の贖いのための小羊としてささげようとされているという計画についてはっきりと理解できたのです。

②弟子たちの変化を気づく
この後、ペテロは三度イエス様を知らないと言ってしまう失敗を犯すわけですが、この最後の晩餐によって、弟子たちは自分たちの「キリスト」についての勝手なイメージを払拭し、イエス様の本当の計画について理解し、納得し、イエス様に信頼して従い続けていくことを決意したと思われます。その根拠は30節です。「30そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。」この短い表記から、弟子たちが「イエス様の死」というこれから起きる出来事に困惑することを止め、その現実を受け入れな、イエス様に従い続ける決意をし、極めて冷静で、平安な心持ちでオリーブ山に向かって進んでいく姿を想像することができるのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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