デイリーディボーション 11月28日(火)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月28日(火)

2018年11月27日(火)

コリント人への手紙 第2 6:8-10
8また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、9人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、10悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

【ポイント】①福音の「逆説・パラドックス」を理解する
健全な教会とそうでない教会を分ける決定的なポイントは「聖書的であるか否か」「聖書的であることを求め葛藤しているか否か」であると思っています。昨日学んだように、教会が「聖書的」であろうとする時に、この世の人々(罪人)にとって直感的な魅力を感じないことがたくさんあるからです。

そもそも、イエス様の招き自体が決して誰にでも魅力的なものではなく、むしろ「嫌だな」と感じさせるものですね。「23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9章) 「28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章)

これが福音の「逆説」なのです。つまり、この世の人々からすると全く魅力的に見えないものの中にこそ本当の祝福があるということなのです。

この世の人々(罪人)は、「自分のいのちを救い救うこと」「重荷が取り除かれること」は熱心に求めますが、「自分を捨てること」「イエス様のくびきを負うこと」は「嫌だ」と直感的に感じるのです。ですから、牧師が大勢の人を教会に集めたいと考える時に、「自分を捨てること」「イエス様のくびきを負うこと」というメッセージをなるべく目立たないように伝えたいという誘惑に負けてしまうことがあるのです。しかし、自分を捨てる覚悟、イエス様のくびきを負う覚悟がない人々が集められてしまうと、教会が聖書的な健全さを保つことはできなくなってしまうのです。

そこでパウロは若い牧師テモテにこのように教えているのです。「2ことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4章)

今日の箇所から、パウロの使徒としての歩みも、全くきらびやかなものではなく、むしろその反対であったことが分かります。しかし、パウロはそのような苦難の歩みこそが、自分が使徒であることの証明であると語っているのです。それでは、クリスチャンの歩みが苦難ばかりで、そこに喜びがないのかといえば、そうではありません。パウロはむしろその反対だと語っているのです。人々からみると「あわれ」に見えるかもしれない歩みにこそ本当の「喜び」があるというのです。

この福音の逆説を理解していると、健全な福音と、この世に蔓延しているご利益宗教的な福音を見分ける力を身につけることができるのです。パウロはコリント教会のクリスチャンがこの力を身につける事ができるようにと導いているのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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