デイリーディボーション 5月21日(火)

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デイリーディボーション 5月21日(火)

2019年5月21日(火)
マルコによる福音書 7:1-5 1さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。2イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、3――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、4また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある――5パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
【ポイント】 ①「昔の人のたちの言い伝え」に注意する イエス様は聖書が神のことばであると教えられました。「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:4)、「17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)つまり、イエス様は、「神のことば」ではない「昔の人のたちの言い伝え」には全く権威を認められなかったということでもあります。
当時の律法学者・パリサイ人は、イエス様が自分たちの信仰を否定されているとさえ感じたことでしょう。なぜなら、今日の箇所からも、律法学者たちにとっての信仰とはユダヤ教の伝統、過去の教師たちの教えなどを守ることだと考えていたことが推察できるからです。ユダヤ教以外にも伝統を守ることが信仰の中心になってしまっている「宗教」はたくさんありますね。私たちキリスト教徒も例外ではありません。カトリック教会、正教会だけでなく、プロテスタントの教派の中でも、過去から受け継いできた伝統、自分たちが築いてきた伝統に極めて大きな権威を認めている教会があるからです。
例えば、教会の誰かが「今年はクリスマス礼拝を持つことをやめましょう。」という提案がされた時に、あなたの心の中にどのような思いが起こるのかを考えてみれば良いでしょう。イエス・キリストの実際の誕生の日以外に、イエス様の誕生を祝っている様子は聖書のどこにも記されていません。つまり、クリスマスは「昔の人たちの言い伝え」に過ぎないわけです。しかし、少なくとも私自身は、「うちの教会はクリスマス礼拝をやめました」という話を一度も聞いたことがありません。つまり、極めて多くの教会が「昔の人たちの言い伝え」に縛られているということなのです。
しかし、私は「昔の人たちの言い伝え」を全て廃止しましょうと言っているのではありません。私たちプロテスタント教会の中にも、イエス様の時代のユダヤ教の従事者のような感覚が色濃く残っていることを自覚することが大切だと言っているのです。私は、宗教改革の意義は、「聖書的であることを探求し続ける姿勢」にあると考えています。そこで大切なことは「自分たちの教会は聖書的でない部分を含んでいる可能性がある」という、自分たちの不完全さを認める謙虚さであり、「その教えは聖書のどこに記されているのか?」という素朴な疑問を持ち続けることだと考えます。
その姿勢(疑問)を失う時に、教会はイエス様の時代のユダヤ教、宗教改革前の教会へと先祖還りしてしまうのです。それは、イエス様の働き、教えを無にしてしまうことになることを覚えておきましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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