デイリーディボーション 6月18日(木)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月18日(木)

2020年6月18日(木)
へブル人への手紙 1:5-9 5神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」6さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」7また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、8御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。9あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」
【ポイント】 ①守護天使はどうなのか? これらの個所から、この手紙の著者が、手紙の宛先の人々の中に「御使い(天使)」について間違った理解をしている者がいると認識していることが分かります。ですから、「御使いは崇拝の対象ではないこと」「キリストが御使いよりも優れた存在(比較にならないほど)」であることを教えようとしているのです。1章1節からの文脈の中で説明するのであれば、「御使い」も「人間も神」の被造物であり、キリストは創造者であるということです。
それでは「守護天使」はどうなのでしょうか。カトリック教会ではマタイの福音書18章10節の「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」という記述から次のような教理を教えているそうです。「人間は生まれてから死ぬときまで、天使たちの保護と執り成しを受けています。信者は保護者のような守護の天使に付き添われ、守られています。」
プロテスタントの牧師は神学者の中には、マタイ18章の「この小さい者たち」を「すべてのクリスチャン」と理解するのか、「迫害を目前にしているイエス様の弟子たち」を指しているのか意見が分かれれるようです。私は後者だと思っています。さらに、マタイ18章5節のメインポイントは弟子たちに最後の最後までキリストに忠実であるようにとの「励まし」であり、「天の父の守りがあるという約束」であることが明白です。決して、「クリスチャン一人ひとりに天使があてがわれ、天使が守りと執り成しを行ってくれる」と教えている箇所ではないと考えるのが適当だと思います。さらに、もし天使の守りがあるとすれば、それは、天の父の指示でそうしているのであって、私たちが願いや希望によって天使が動いているのではないわけです。私たちの直接の窓口は、天の父であり、御子であり、聖霊なのです。
「守護天使」というような教えは、人々の神様(父、子、聖霊)との、エクスクルーシブな愛の関係(絶対に他の何者も入れてはならないという意味での排他的な愛の関係)に水を差したり、誘惑を与えたりするものに他なりません。昨日学んだ通り、マリアや聖人も同じです。もし、彼らと対話ができたら「やめなさい!主だけを愛し、思いなさい!」と怒られるに違いありません。なぜなら、ヨハネの黙示録22章では、御使いたちの想像を絶するようなパワフルな働きのビジョンを見たヨハネが、御使いにひれ伏して拝もうとしたときに、御使いは「8これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。9すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。』」と宣言しているからです。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info