デイリーディボーション 6月20日(木)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 6月20日(木)

2019年6月20日(木)
マルコによる福音書 10:1-2 1イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたもみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。2すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。3イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」4彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」5イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。6しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。7それゆえ、人はその父と母を離れ、{その妻に結びついて、}8ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。9こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
【ポイント】 ①離婚は罪? アメリカの保守的なクリスチャンの中には「人工中絶」や「同性愛(性的少数者)」が神様の御心でない(聖書的でない)として、極めて批判的な立場をとってい人が多く存在します。、今日の箇所をみるとイエス様は「離婚」は神様の御心に反していると明言されています。しかし、興味深いことに、アメリカの保守的なクリスチャンは「離婚」について、大変寛容な立場をとる人が多いのです。残念なことに、彼らの多くはこの自己矛盾に気が付いていません。聖書を正しく読めば、人口中絶も、性的少数も、離婚のどれも等しく神様の御心に反した罪であることは明らかなのです。
しかし、アメリカの保守的なクリスチャンが離婚については寛容な理解をしている理由はどこにあるのでしょうか。おそらく、多くのクリスチャンにとっても「離婚」は、最大限の努力をしても避けることができなかった「現実」であるからだと推測します。つまり、大変多くのクリスチャンが離婚を経験しているので、離婚を単純に「罪」として切り捨てたり、離婚した人を「罪人」として排除したりすることができなくなったのでしょう。
私は、個人的にはこの「離婚」についての出来事を、「人口中絶」「性的少数者」にも、適用することが大切だと考えています。つまり、それらの出来事で悩んだり、苦しんでいる人の立場に立って考えること、自分がそのような状況に置かれたとしたらどのように感じるのかを想像することが大切だと思うのです。なぜなら、私たちクリスチャンは一人の例外もなく「罪人」であるからです。繰り返しになりますが、聖書のみことばからすれば、「人口中絶」も「同性愛」も「離婚」も罪なのですが、それらの罪と関係ないと思っている人々も、神様の前では全員罪人なのです。
大切なことは、イエス様の十字架の贖いとは、ご自身が私たちの身代わりとなって罰を受けてくださり、依然として「罪の性質」を持っている私たちを、「罪のない者」として受け入れてくださっているということです。私たちは罪を犯さなくなったのではなく、神様がイエス様への信仰に免じて、私たちの罪を問わない約束してくださっているだけなのです。
私たちクリスチャンは、何が神様の御心にかなったことであるのか、何が罪であるのかを、聖書から知ることができます。その真理を自分たちの都合で勝手に変えたり、水で薄めたりしてはなりません。しかし、同時に、私たちがクリスチャンになった後でも、罪を犯してしまうことがあります。自分の努力ではどうにも解決できない問題を抱えてしまうこともあるでしょう。イエス様は、罪の現実に苦しむ私たちのために、十字架にかかってくださり、今も私たちの弱さを理解し、憐れんでくださっていることを忘れてはならないのです。
「離婚」「人口中絶」「同性愛」が罪でないとするのも聖書的ではありません。しかし、それらに苦しむ人を「さばく」ことも聖書的ではありません。しかし、そのどちらかの立場をとってしまうクリスチャンが多いのです。どちらの極端も聖書的でないことを覚えておきましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info