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2019年6月28日(金)
マルコによる福音書 10:46-52 46彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。47ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。48そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。49すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。50すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。51そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
【ポイント】 ①イエス様は「ダビデの子」? 盲人の癒しの記録はすでに8章22-26節に記録されていました。その箇所で学んだ通り「盲人の癒し」は旧約聖書に記されているメシアの預言の成就、つまりイエス様がメシアであることの証拠です(参:イザヤ42章)。イエス様は多くの癒しを行われましたが、そのすべてが福音書に記録されているわけではありません。イエス様の福音を本にまとめるということは、イエス様が何者であるのかを最小限のことば(紙面)で伝えることが求められたはずです(ヨハネ21:25)。ですから、意味が重複する出来事は割愛するのが普通なのです。にもかかわらず、再び盲人の癒しが載せられているということは、何が別の重要なメッセージが含まれていると考えるべきなのです。
今日の出来事が実際に起きていた現場を想像してみましょう。イエス様が盲人のそばを通りかかり、盲人を呼ばれ、会話をし、いやしを行われるわけです。この出来事は数分の出来事だったと思われますが、イエス様と盲人の会話、いやしは30秒もかからなかったことでしょう。ということは、この場面の中心は盲人が繰り返し叫び続ける「ダビデの子よ。私をあわれんでください」という言葉です。
例えば、マタイは自分の福音書を「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」と書き始め、系図をもってイエス様が血筋においては間違いなくダビデの子であることを説明していますから、イエス様がダビデの子孫という意味での「ダビデの子」という表現はイエス様が何者であるのかを正確に表現しているわけです。
ある意味、今日の箇所からイエス様が真の王としてエルサレムに入って行かれる「エルサレム入城」が始まっていることが分かるのです。
一方、12章35-37節を見るとイエス様はご自分が「ダビデの子」ではないと明言されています。この点については後日学びましょう。
ライフチャーチ 大谷信道