デイリーディボーション 8月3日(金)

150.60.159.37誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 8月3日(金)

2018年8月3日(金)

コリント人への手紙 第一 9:24-27
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

【ポイント】
①「自由」と「自制」
キリストを信じる者には大きな「自由」が与えられています。しかし、この「自由」を神様の御心に沿って用いるためには、信仰の成熟が求められます。というのも、誰にでも分かりやすいように「自制」すべき事柄をルール化してしまえば、イエス様の時代のパリサイ人たちの教えに先祖返りしてしまうことになるからです。つまり、「偶像にささげられた肉は食べてはならない」というルールを作ってしまえば、コリント教会での問題は解決するわけですが、それは律法の奴隷状態(律法主義)になってしまうわけです。

パウロが教えている「自制」とは、兄弟姉妹のためになるのか、どのような行為が「キリストの愛」を反映するものとなるのかを、クリスチャン一人ひとりがイエス様のみことばに聞き、祈り、自分の頭で考え、自分の自由な判断の中で決めることだからです。「偶像にささげられた肉を食べない」という判断は、人から強制されることでも、全体の空気を読んで忖度することでもなく、目の前にいる兄弟姉妹を愛し、つまずかせたくないという思いから下すべきものなのです。

しかし、キリスト教界を見渡すと(自分自身を振り返ると)「自由」が「自分勝手」になってしまったり、「自制」が「律法主義」になってしまったりしているという現実があるのです。パウロはこれらの状態を「私は決勝点がどこかわからないような走り方」「空を打つような拳闘」と例えています。つまり、「的外れな生き方」ということですね。私たちクリスチャンに与えられている課題は、「自分勝手」にも「律法主義」にも陥らず、すべてを愛によって行っていくことなのです。これこそが「朽ちない冠を受けるため」の歩みなのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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