デイリーディボーション 8月9日(木)

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デイリーディボーション 8月9日(木)

2018年8月9日(木)

コリント人への手紙 第一 10:13
14ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。15私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。16私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。17パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。18肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。19私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。20いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。21あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。22それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。

【ポイント】
①教会の「試練」
昨日の箇所をもう一度確認してみましょう。「13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

今日の箇所でパウロが教えようとしている「試練」について理解を深めることができます。14節の「ですから」ということばから、具体的な「試練」、その歩み方が分かります。それは「偶像礼拝を避けなさい。」ということです。しかし16節以降を読むと、これは金の子牛礼拝するような積極的な偶像礼拝ではなく、「偶像にささげられた肉を食べること」を意味していることが分かります。

パウロにとって教会のメンバーが集まって食事をすることは、単なる「飲食」ではなく「礼拝」なのです。つまり、私たちクリスチャンが集まって食事をすることは、それ自体が礼拝であり、主の晩餐なのだということなのです。(儀式化された「聖餐式」のイメージしか持っていない人は、今日の箇所から認識を新しくしてみましょう。)ですから、パウロはイエス様の死を覚える食卓でわざわざ偶像にささげられたと分かっている肉を食べる必要は全くないと言っているわけです。

パウロはコリント教会のメンバーにキリスト者としての自由の用い方に「自制」「我慢」を求めているのです。それがコリント教会のメンバーにとっての「試練」なのです。とはいえ、パウロは「律法主義」的に、「偶像にささげられた肉を食べるな!」と教えるのではなく、メンバー一人ひとりに自発的な「愛の行動」を求めているわけです。この自制や我慢を伴う「愛の行動」こそが、コリント教会に与えられている試練なのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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