デイリーディボーション 8月9日(金)

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デイリーディボーション 8月9日(金)

2019年8月9日(金)
マルコの福音書 14:22-24 22それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」23また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。24イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
【ポイント】 ① 罪の贖いの主体者となる エジプトでの過越の日、イスラエルの民は自分の手で子羊の喉を切り裂き、血を抜き、革をはぎ、内臓を処理し、過越しの食事の準備をしました。現代に生きる私たちは、精肉工場できれいに処理された肉しか食べていません。自分の肉体を支えている、牛、豚、鶏などがどのように血が抜かれ、死んでいき、処理されているのかを知らずに、パックに入った肉を食べているのです。私たちの肉体(命)を維持するために、どれだけの動物の命が犠牲になっているのかを知らずに食事を楽しんでいます。しかし、過越の日は、それぞれの家庭で家の主人が自分たちが大切に育てた羊を屠り、食べ、その血によって神様のさばきから逃れたのです。
もし、過越がイエス様の十字架の予型だとすれば、イエス様の最後の晩餐、そして私たちが行っている主の晩餐においても、先に述べた自分の手で羊を屠ったという感覚も味わうべきではないでしょうか。つまり、イエス様の肉体と血潮は、私たちの見ていないどこかの精肉工場で処理されたものではなく、私たち罪人が自らの手でイエス様を十字架につけ、血を流し、殺した出来事であるという自覚を持つことによって、過越しと十字架を重ね合わせられた神様の御心を正確に理解することが大切だということです。
昨日も学びましたが、イエス様を十字架につけ殺したのは、ピラトでもユダヤ人でもありません。その主体者は天の父と私たちなのです。アブラハムがイサクをささげた際も、天の父が代わりの羊を用意してくださいましたが、その羊を屠ったのはアブラハム自身でした。私たちの身代わりとして、天の父は独り子を用意してくださいました。アブラハムが感謝をもって羊を屠ったように、私たちも神の小羊であるイエス様を屠ったのです。ここに、ピラトやユダヤ人などの第三者が介在する余地はないのです。イエス様の十字架は神様と私たちの「血の契約」なのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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