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2022年11月30日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 7章7節 7それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
【ポイント】 ①クリスチャンにとっての律法 律法の行ないによってはイスラエルの民(異邦人も)が義とされることが不可能であるというのがパウロの行きついた結論です。パウロだけでなく、本当に神様の前で正直になったときに、自分は律法を完璧に守ることができているので、神様の前で義とされていると確信を持つことができる人はいないはずです。外面上は律法を守っているふりはできるかもしれませんが、自分の心の中を正直に見ることができる人は、自分が罪深い性質を持ち続けていることに気が付くはずだからです。
実は、そこに律法の真の意味があるとパウロは教えています。つまり、律法がなければ、神様の前で何が正しく、何が悪いことであるのかを知る方法はないのです。パウロは第十戒の「むさぼり」を例に挙げていますが、「人のものを欲しがってはならない」という戒めがなければ、それはこの世では普通のことであり、神様の前で罪であることを知らなかったことになるというわけです。
それでは、「むさぼってはならない」という戒めを聞けば、人の心の中に「むさぼり」は起きないのでしょうか。残念ながら、そうではありません。しかし、先に述べたように、この人間の現実に気が付くことが重要なのです。つまり、人間は律法によって神様の前での善悪を知ったとしても、善だけを行っていくことができない存在だということを認めることが重要なのです。
さらに、重要なことは、律法を聞いた者が自分の罪深さに気が付かされるという点においては、律法をもらったユダヤ人も、律法とは関係なく生きている異邦人も違いはないのです。さらに、その罪深さを自分の力で克服することができないという点も、ユダヤ人も異邦人も同じなのです。そして、自分の罪の性質とその問題の深刻さに気付いた者は、神様に赦しと、救いを求めるようになるのです。
この点については、この後パウロのことばからしっかりと学んで行きましょう。
ライフチャーチ 大谷信道