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2023年1月17日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 8章26-27節 26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
①御霊の助け、とりなしとは? 今日の個所も、多くの牧師・教師、または、バイブルスタディー・デボーションのテキストなので、文脈を無視した解釈や適用が教えられてしまう箇所だと思います。その理由について考え、パウロが本当に伝えようと思っているメッセージを受け取りましょう。
パウロの文脈を無視するとどのような問題が起きるのかを見てみましょう。26節の「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」という表現に、多くの人が本能的に食いついてしまうようです。地上に生きるほとんどすべての人が、日々の生活の中で悩み、ストレスなどの精神的な苦しみ、病気やケガなどの肉体的な苦しみを感じていると思います。そのような状態の中で自分の弱さを覚えている人は、26節のことばに強く惹かれるのです。しかし、私たちはここでパウロが考えている「弱さ」が何であるのかをきちんと理解していなければ、「御霊の助け」が何であるのかを正しく知ることはできないですね。
26節の後半の「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」という箇所も同じです。熱心に祈ること(たくさんの言葉で流暢に祈ること)が信仰深いクリスチャンの特徴であると勘違いしている人は、一生懸命、牧師や先輩クリスチャンの祈る姿勢、口調、使う言葉などを真似したりするものです。そのような風潮の中で「どのように祈ったらよいかわからない」と感じているクリスチャンは少なくないことでしょう。そのような悩みを覚えている人に26節だけを抜き出し、正しく祈るためには聖霊で満たされる必要があるとか、「異言」で祈る必要があるなどと文脈を完全に無視した解釈を教えてしまう人がたくさんいるようです。個人的には、聖書の文脈を無視することは、聖霊を無視することに等しいと思うのですが…。
さて、パウロが語っている「弱さ」は、8章の初めから文脈通りに読めば明らかですね。例えば、18.19節を再度見てみましょう。「18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」そうですね、私たちが弱さを覚え、助けを求めている理由は「将来私たちに啓示されようとしている栄光」を待ち望む地上でのクリスチャンは、依然として朽ちる肉体を持っているために「いろいろの苦しみ」を経験するためです。パウロは、22節でその状態を「産みの苦しみ」と表現しています。産みの苦しみは出産という祝福の前に必要な苦しみですね。しかし、その苦しみは永遠に続くものでも、トラウマになるものでもなく、子どもの誕生によって、後になれば喜びの一部になるものです。
それでは私たちにとっての「出産(の喜び)」とは何でしょうか。それは「将来私たちに啓示されようとしている栄光」であり、それはイエス様と顔と顔を合わせて会うときのことです。つまり、それは「イエス様の再臨」もしくは、私たちが肉体の命が尽きるときです。これは、私たちが地上で肉体をもって生きている間は、「いろいろの苦しみ」が続くことを意味しています。残念ながらこの事実を隠し、聖霊の助けがあれば様々な問題が解決してしまうかのような、いわゆる現世利益的な教えをする牧師・教会が少なくありません。しかし、パウロは決して現世利益を教えているのではないのです。パウロの「希望」とは、この世で自分の願いや夢が実現することでも、この世での苦しみがすぐに解決することでもありません。イエス様にお会いすることに希望を置きながらも、地上での苦しみによって心が折れそうになったとしても、かならず御霊の助けととりなしがあるということなのです。
パウロの教える希望について正しく理解するときに、私たちは、自分自身が、そしてこの世のクリスチャンたちが「現世利益」「自己実現」の奴隷になり、そのために神様を利用するという、きわめて肉的な状態に陥っていることに気が付くことでしょう。「神様の愛」「福音」「平安」を語りながら、結局は自分の夢の実現のためにイエス様の名を利用し、自分の夢が実現することに一番の喜びを覚えているということはないでしょうか。
パウロが、この世での物質的な成功にも、尊敬や名声の獲得にも全く興味がなかったこと、つまり、この世に全く執着を持っていなかったことがピリピ人への手紙から分かります。自分のこの世に対する思いと比べてみましょう。
ピリピ人への手紙 1章21-23節 21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。 私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
ライフチャーチ 大谷 信道