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2022年1月18日(火)
マタイの福音書 17:14-19 14彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。15「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。16そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」17イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」18そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
【ポイント】 ①「不信仰」を別のことばで考える 10章1節にはこのように記録されていました。「 1イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」
弟子たちに与えられた「権威」は誰のものでしょうか。言うまでもなく「イエス様の権威」です。それでは、弟子たちが病を癒すことができたとしたら、実際にそれを行われたのは誰でしょうか。言うまでもなく「イエス様」ですね。
ということは、イエス様が指摘された「不信仰」とは何だったのでしょうか。弟子が自分の病を癒すことができる力を信じられなかったことでしょうか?決してそうではありません。ここでイエス様が指摘されているのは、弟子たちのイエス様の権威に対する信頼の無さだったと思われます。
この点を間違えてしまうと、イエス様のメッセージが「福音」ではなく、陳腐な「自己啓発」のようなものになってしまう可能性があります。そして、実際にそのようなメッセージとして教えられていることも少なくないのです。
大切なのは「信じること」ではなく、「誰を信じるのか」ということなのです。「成功を信じれば、必ずその通りになる」というな現象があることは事実だと思います。しかし、イエス様が教えられている「信仰」はそのようなものではありません。イエス様は弟子たちが、そして私たちが、イエス様の権威を信頼すること、イエス様の御心がかなえらず実現することを信じることを「信仰」と呼ばれたのです。イエス様の計画(御心)と関係ないことの実現を私たちがどれほど熱心に信じたとしても、それは「信仰」ではないのです。
そのような視点で自分の信仰について考えてみましょう。今日一日をイエス様の自分に対する愛を信じ、イエス様の導きに信頼し、心を平安に保つことができるかどうかチャレンジしてみましょう。そうすると様々な不安が心にあることに気が付くはずです。その時に、私たちがすべきことは「不安がなくなること祈り、信じること」ではありません。「イエス様が共にいてくださるから大丈夫!」と、イエス様を信頼することです。これが、イエス様が求められている信仰なのではないでしょうか。
ライフチャーチ 大谷信道