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2022年1月19日(水)
マタイの福音書 17:24-27 24また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」25彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」26ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。27しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
【ポイント】 ①献金は税金(義務)ではない 「宮の納入金」とは多くの英語聖書では「神殿税・temple tax」と訳されています。言語では「2ドラクマ」と書かれています。2ドラクマはおよそ一日の労働の対価だと言われています。25節以降のイエス様と弟子たちのやり取りから、この「2ドラクマ」は納入の義務がある「税金」であることが分かります。
イエス様はここでことを荒立てると、イエス様が国家に対する反逆者であるという間違った理解が生じ、ご自身の計画に支障をきたすことを知っていたので、神殿税を納めることにされたわけですが、真理としては、天の父は「子」である私たちに税金を要求することは無いということを教えられたのです。
ウィキペディアの情報で申し訳ありませんが、現代でもアイスランド、オーストリア、スイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、フィンランドでクリスチャンとして登録している国民に「教会税」が課されているそうです。しかし、そのような制度は、今日のイエス様のみことばに反していることは明らかです。
ここで、大切なポイントは、神殿税は「献金・ささげもの」とは別物であったということです。神様の愛の応答としてささげられる献金は、罰則を伴う義務ではありません。あくまで、自分の神様との関係の中で自主的に(自由に)捧げられるものです。貨幣経済・物質主義の社会に生きている私たちにとって、どこにどれだけのお金を使っているのかで、その人が大切にしているもの(その人の価値観)を知ることができます。義務ではないところにこそ、私たちの真心が表れるのです。
ライフチャーチ 大谷信道