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2023年1月31日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 9章6-8節 6しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。8すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
①パウロの手紙の目的は自説の発表(神学論文)ではなく、教会の問題解決。 日曜日の礼拝メッセージの中でも触れましたが、パウロがローマの教会に手紙を書いた目的は明白です。それは、手紙を通読すればすぐに分かりますが、恐らくローマ教会のユダヤ人クリスチャンの中にイエス様の福音をユダヤ教的に理解し、福音ではなく律法を中心として生きて行くことが大切であると考えたり、教えたりする人がいたのだと思われます。ユダヤ教(パリサイ派の信仰)に先祖返りしてしまうユダヤ人クリスチャンが少なくなかったと思われます。ライフチャーチではよく引用する箇所ですが、例えば、手紙の中で一番早く書かれたと思われるガラテヤ人への手紙には、ペテロやバルナバまでもが、ユダヤ教への先祖返りに引きずり込まれてしまいそうになっていた事実が記録されています。
ガラテヤ人への手紙2章11-14節 11ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。12なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
非常に興味深い、そして恐ろしい事実は、エルサレムの初代教会のリーダーたちの中には、イエス様の福音から離れ、異邦人と食事をしないというユダヤ教的な生活に戻り、ペテロでさえもその間違った信仰に引きずり込まれていたということです。もし、パウロもエルサレム教会のリーダー達のプレッシャーに負け、ペテロ達のように間違った福音に引きずり込まれてしまっていたとしたら、イエス様の福音はこの世から完全に消去されてしまっていたことでしょう。だからこそ、イエス様がクリスチャンを迫害していたパウロを選び、召されたわけですね!
この事実から、ユダヤ教の律法主義的な教えが、人間の肉的な部分に非常に強く働きかける性質があることを知ることができます。人間の罪の性質は、戒律に縛られることへ強い拒否反応を示しますが、一方では、具体的な命令や指示がなければ善を選び取ることができないという面も持っているのです。また、律法や戒律という、タスクをこなしていくことにやる気や充実感を覚える人も多いのです。ですから、ユダヤ人クリスチャンに限らず、厳しい宗教的な戒律がないことに、不安を覚えてしまうクリスチャンは少なくないのです。つまり、すべての時代のクリスチャンが律法主義的な信仰に陥る可能性があり、すべての時代のクリスチャンがその誘惑と戦う必要があるということなのです。
あなたは、イエス・キリストの愛と恵みの福音にしっかりと立つことができているでしょうか?「〇〇ができているから自分は良いクリスチャンだ。」とか「〇〇ができていないから自分はダメなクリスチャンだ。」というような感覚がすこしでもあれば、イエス様の福音から離れてしまっている可能性があります。私たちが信仰的な行いによって神様の前に正しい者とされるのであれば、イエス様の十字架は不要になってしまうことを思い出しましょう。
ガラテヤ人への手紙2章20-21節 20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
ライフチャーチ 大谷 信道