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2024年1月09日(火)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 5:11-13 11私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。12外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。13外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
【ポイント】 ①教会形成と家族形成は同じ キリスト教が他の宗教のように変質してしまうという、悪い意味での「宗教化」については度々触れていますが、今日の個所に見ることができるコリント教会の問題も、その視点から考えることが重要です。
つまり、教会が「主にある家族」であるとすれば、自分が家族とどのように関わり、どのように愛していくのかということを想像すれば、それが教会に集まる主にある兄弟姉妹との正しい関わり方になるわけです。イエス様は私たちに「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ)という命令を与えられています。イエス様の愛を受け取り、イエス様を愛することを決めた私たちは、イエス様を愛する具体的な行為として「互いに愛し合うこと」を使命(強要されてではなく、自らの意志で選び取る生き方)としています。
私たちクリスチャンは自分の家族、そして主にある兄弟姉妹を愛すると決めた者たちなわけですが、残念ながらこの決意をすることによって自動的に日々の生き方が変えられるわけではありません。私たちは、家庭においても教会においても、何が家族、兄弟姉妹を愛することになるのかを、常に考え続けることが必要だからです。コリント教会のクリスチャンはこの点を間違ってしまったのです。つまり、教会の中にいる「不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者」を見逃し、放置してしまったのでしょう。家族の中では、妻、夫、子ども、兄弟、親を真剣に愛するがゆえに、間違いを指摘したり、叱ったりすることが求められます。家族の誰かが間違った道に進んで行くことを見て見ぬふりをすることは、家族として間違っていると感じる人がほとんどでしょう。この、ある意味家族の中では当たり前のことが、コリントの教会の中でできていなかったのでしょう。
このコリントの教会の問題の一番の理由は、教会を家族として見ていなかったことにあるのではないかと思います。「自分の家族だったら注意するけれど、他人の生き方に口を出す必要はないし、他人の生き方に干渉したら面倒くさいことになる」というような、感覚が蔓延していたのではないかと想像します。
この傾向は、現代の教会にもあるのではないでしょうか。もちろん、相手の問題を何でも指摘すればよいわけではありません。家族の中でもそのようなことはしません。どのようなタイミングで、どのような言い方をしたら、相手が怒ったり、へそを曲げてしまわないかというようなことを悩み、迷うことが多いのではないでしょうか。これは、とても大変で、時間もかかる大変な作業です。教会においても同じなのです。しかし、それを愛をもって行おうとするときに、祈りと神様からの知恵が必要になるのです。しかし、これを怠ると、単なるさばき合い、または問題の放置に陥ってしまうのです。
とは言え、その問題がコリント教会のように深刻でない場合は、祈りつつ、神様の導きを信じつつ、暖かく見守ることが一番であることも多いと個人的に感じています。家族、教会がそのメンバーにとって、最も安心でき、落ち着くことができる温かい場であることが、互いに愛し合うという命令の先に見えるからです。
ライフチャーチ 大谷信道